2024年9月29日「父なる神 ー まず神の国と神の義を」

聖書:マタイによる福音書6:25-34
説教題:父なる神 ー まず神の国と神の義を

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日本で生み出されたあるカテキズムの第一の問答に、このようにあります。


問 あなたが、主イエス・キリストの父なる神に願い求め、待ち望む、救いの喜びとは、いかなる喜びですか。

答 私が、私ども神の子としてくださる神からの霊を受けて、主イエス・キリストの父なる神を、「私の父なる神、私どもの父なる神」と呼ぶことができるようになる喜びです。神は、いかなる時にも変わらずに私の父でいてくださり、私の喜びとなり、誇りとなってくださいます。


私はこの言葉が大好きです。私たち主イエス・キリストを信じる者は、神様を「私の父」「私たちの父」とお呼びすることができる。主イエスさまがそう教えてくださったからです。神を「父」とお呼びすることができ、事実私たちの父でいてくださる。ここに私たちの信じる喜びがある。

使徒信条は主イエスが教えてくださった通りに神を「父」とお呼びしています。今日の箇所にそう書かれています。主イエスは神を「あなたがたの天の父」とおっしゃいます。もともと、主イエスはここで「空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりも優れたものではないか」とおっしゃっている。野の花も指して同様におっしゃっています。空の鳥も野の花も、天の父の慈しみによって生かされており、装われている。まして、あなたがたにはなおさらのこと。あなたたちは神の慈しみに生かされている。だから、思い煩うな。主イエスはそうおっしゃいます。

しかし、皆さんはどう思われるでしょうか。生きるために思い煩いはつきものです。私たちは鳥や花ではありません。しかも25節を見ると「自分の命のことで…思い煩うな」とおっしゃっています。とんでもないことです。自分の命のことだからこそ思い煩うのです。生きるために必要だから食べ物や飲み物のことで思い煩うし、家族の着る物が無くては生きられないから思い煩うのです。命のために思い煩っている。一方ではそのようなことを思いながら、他方では少し違うことも考えます。フトすると勘違いしてしまいがちな気もします。イエスさまは2000年前の方だし、放浪生活をしているし、私たちとは違う世界を生きている。そういう方の、あまりにもロマンチックな言葉。そんなふうにどこかで考えてしまうこともありうると思います。しかし主イエスは私たちの現実をとってもよくご存じです。今日の箇所の直前では「あなたがたは、神と富とにつかえることはできない」とおっしゃっています。この「思い煩う」という言葉は、二つのものの間で心が分かれてしまうようなときにも使われています。主イエスはお金の問題を問うておられる。食べること飲むこと着ること、それらは全部お金の問題です。そうすると私たちは、自分の命を支えるのは神様なのかお金なのかと、心が二つに分かれてしまう。思い煩ってしまう。そうは言っても、主イエスは「お金なんて必要ない」とおっしゃっているのでありません。「あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。」必要なのです。私たちが生きるために。しかしそれは神があなたの天の父として備えてくださる。主イエスはそのことを信じて欲しいとおっしゃるのです。

「まず神の国と神の義を求めなさい。」主イエスはそう命じておられます。神の国、それはイエスが王として治める国です。イエスは神の国の王としてこの世の国を支配する悪と戦っておられます。私たちの世界が貪欲とそれを支えるエゴイズムで覆われているからです。神の国と神の義、それは私たちを養う天の父への全き信頼です。私たちは神への信頼によって世を覆う悪と戦うのです。

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