2024年9月8日「墓に響く希望の声」

9月8日は既に逝去された方たちを覚えて礼拝を献げました。
聖書朗読と説教の間に逝去者のお名前をお呼びしましたが、プライバシーの問題があるので、この動画ではその部分をカットしています。

聖書:ヨハネによる福音書11:38~44
説教題:墓に響く希望の声

音声


動画



人生には転機になる出来事が起きます。転職。結婚。出産。いろいろなことが起こります。そういう時にこの先どうなるのか見えないことは不安ですし、何らかの形で傷つくことも少なくありません。ですから私たちには祈りが必要です。神に助けていただかなくてはどうしようもないことがたくさんあります。愛する人の死は、そのような危機の中でも特に厳しいものです。大切な人は「私の一部」です。その人が目の前からいなくなってしまい、あの声を聞くことができず、手に触れることもできなくなるのは無限に辛いことです。時間にだっていやせない。神にいやしていただかなくては、他に助けがない。私たちには祈りが必要です。

今日は聖書が伝える少し長い物語の最後のところを読みました。3人姉弟の話です。マルタ、マリア、ラザロ。生まれ順は分かりません。私は姉マルタ、妹マリア、末っ子のラザロという気がしています。ただのイメージですが。どうでしょう。いずれにしても、3人の内のラザロが病気になってしまいました。マルタとマリアは離れたところにおられる主イエスに人を遣わし、自分たちのベタニア村に来てラザロを癒やしてくださいように願いました。愛する人のために祈ったのです。

しかしイエスさまはなかなか来てくださいませんでした。到着したのは、結局、ラザロが死んで葬られて四日目のことです。マルタは主イエスが来たと聞いて迎えに出て、会うなり主イエスに訴えます。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」やがてマリアも同じ場所に来て主イエスの足元にすがりついてマルタと同じように主イエスに訴えます。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」私たちにもよく分かる叫びです。私たちも同じように神に訴えるのではないでしょうか。

しかしイエスさまはなかなか来てくださいませんでした。到着したのは、結局、ラザロが死んで葬られて四日目のことです。マルタは主イエスが来たと聞いて迎えに出て、会うなり主イエスに訴えます。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」やがてマリアも同じ場所に来て主イエスの足元にすがりついてマルタと同じように主イエスに訴えます。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」私たちにもよく分かる叫びです。私たちも同じように神に訴えるのではないでしょうか。

そんな私たちに主イエスは驚くべきことをおっしゃいます。この当時の墓は洞穴のような形状で大きな石を蓋にしていました。主イエスはラザロの墓をご覧になって言われます。「その石を取りのけなさい。」墓の蓋を取るなんて、普通ではありません。私たちだって骨壺の蓋をあまりむやみには開かないと思います。ですからマルタは当然の言葉を返します。「主よ、もう臭います。四日もたっていますから。」過酷なことに、遺体は腐ります。ラザロだってたったの四日前までは体が温かった。しかし今やその肉体が腐敗し始めている。蓋を開けるというのはその現実を直視することです。マルタには耐えられなかった。ところが主イエスはおっしゃるのです。「もし信じるなら、神の栄光を見ると言ったではないか。」主イエスは信じることを求めておられます。主イエスこそ私たちの救い、私たちの希望と信じることを。

世間の多くの人は「死んだらお終いよ教」という宗教を信じています。だから希望が見えず、今の損得だけに振り回されている。しかし主イエスは「私を信じて欲しい」とおっしゃいます。そして墓にイエスの声が響く。「ラザロ、出て来なさい!」ラザロは甦り、墓から出てきました。ラザロに起こった出来事は、しるしです。私たちもやがて死に、墓に葬られます。それは私たちの名を呼んで起こしてくださる方の声を聞くためです。イエスの声が私たちの希望なのです。

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