2024年9月1日「私は神を信じます ー 低きにくだる神」
聖書:詩編第113編
説教題:私は神を信じます ー 低きにくだる神
音声
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
動画
先日、ブラジルの教会の近況を知らせるニュースレターが届きました。現在、ブラジルにあるカンバーランドの教会は三つの拠点で礼拝を献げているそうです。かつて私もブラジルの教会を訪問しました。石塚惠司牧師から次の牧師へのバトンタッチへの準備をしている時期で、ブラジル人のカルロス牧師と出会ったころでした。今はカルロス牧師を含めて三人の牧師がブラジルで牧会をしているそうです。もともと、ブラジルの教会はブラジル東北部のバイア州にあるジョタカ入植地へ日本から移住した高座教会員の佐々木三雄さんとナホさんご夫妻が始めた、移民の子らのための日本語学校と大人のための日曜礼拝に遡ります。過酷な自然と慣れない農作業の毎日。しかし後戻りは許されない。痩せ細った土地でひたすら開拓に打ち込む毎日。そんな中で礼拝をはじめ、ご夫妻でたくさんの人たちに伝道したのです。神を信じる覚悟を、ひしひしと感じます。神を信じて生きるという一事を貫いた人がここにいます。
使徒信条の告白する信仰の言葉に導かれて礼拝を献げて、今日で3回目の日曜日です。使徒信条は元はラテン語で書かれています。日本語とは語順が違うので分かり難いですが、もともと最初のところは「私は信じます、神を、父を、全能の」となっています。できるだけ元の語順を尊重して耳を傾けていきたいと思っています。今日は「私は≪神を≫信じます」です。私は、他の誰でもなく、神を信じます。そう告白しています。
私たちは神を信じます。佐々木さんが信じるのと同じ神を。ブラジルの教会は日本からの入植者の礼拝として始まり、やがて何十年という時を経て、二世や三世、あるいは異なる背景を持つブラジルの方たちが大勢になり、いろいろなことが変わってきました。しかしそれでも「同じ教会」と言えるのはなぜか?それは同じ神を信じているからです。同じように、使徒信条が告白する神を信じているからです。私たちも同じです。私たちも同じ神を信じているのです。
詩篇第113編を読むと、神を信じるとは一体どういうことなのがよく分かります。神を信じるとは神を賛美すること、神を礼拝すること、神に祈ること。私たちはブラジルであろうと座間であろうと、神を礼拝して生きています。「日の昇る所から日の沈む所まで主の名は賛美される。」
4節には「主はすべての国を超えて高くいまし、その栄光は天を超える」とあります。5節には、神が「高きところに座し」ておられるとあります。ある意味で、ここはよく分かる。「神様」のイメージ通りとも言えそうです。それが6から9節になると様子が変わります。「(神は)天にあっても地にあっても、低きに下ってご覧になる方。弱い人を塵の中から起こし、貧しい人を芥の中から高く上げ…子のない女を家に住まわせ」てくださる、と言います。現代とは、社会の状況も価値観も全然違う時代を背景としています。しかし言わんとしているのは、悲しみ、希望を抱けず、どん底に沈み込むような人々のところへ神はくだってきてくださる、ということです。私たちの信じる神は低きにくだる神。神が高きところにおられるという事実の意味は、誰よりも低いところへ来てくださるお方だ、ということです。
神は御簾の向こうの玉座にどっかり座って私たちを眺めるお方ではありません。私たちの信じる神は真に落ち着きなく、天から私たちのいる低きところへ降ってきてくださいました。愛に胸かきむしられて、落ち着いてはいられずに、来てくださったのです。私たちはこの神を信じています。その事実が私たちのあり方を、生き方を定めるのです。私たちは神に落ち着くことのない愛へと促されています。
説教題:私は神を信じます ー 低きにくだる神
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先日、ブラジルの教会の近況を知らせるニュースレターが届きました。現在、ブラジルにあるカンバーランドの教会は三つの拠点で礼拝を献げているそうです。かつて私もブラジルの教会を訪問しました。石塚惠司牧師から次の牧師へのバトンタッチへの準備をしている時期で、ブラジル人のカルロス牧師と出会ったころでした。今はカルロス牧師を含めて三人の牧師がブラジルで牧会をしているそうです。もともと、ブラジルの教会はブラジル東北部のバイア州にあるジョタカ入植地へ日本から移住した高座教会員の佐々木三雄さんとナホさんご夫妻が始めた、移民の子らのための日本語学校と大人のための日曜礼拝に遡ります。過酷な自然と慣れない農作業の毎日。しかし後戻りは許されない。痩せ細った土地でひたすら開拓に打ち込む毎日。そんな中で礼拝をはじめ、ご夫妻でたくさんの人たちに伝道したのです。神を信じる覚悟を、ひしひしと感じます。神を信じて生きるという一事を貫いた人がここにいます。
使徒信条の告白する信仰の言葉に導かれて礼拝を献げて、今日で3回目の日曜日です。使徒信条は元はラテン語で書かれています。日本語とは語順が違うので分かり難いですが、もともと最初のところは「私は信じます、神を、父を、全能の」となっています。できるだけ元の語順を尊重して耳を傾けていきたいと思っています。今日は「私は≪神を≫信じます」です。私は、他の誰でもなく、神を信じます。そう告白しています。
私たちは神を信じます。佐々木さんが信じるのと同じ神を。ブラジルの教会は日本からの入植者の礼拝として始まり、やがて何十年という時を経て、二世や三世、あるいは異なる背景を持つブラジルの方たちが大勢になり、いろいろなことが変わってきました。しかしそれでも「同じ教会」と言えるのはなぜか?それは同じ神を信じているからです。同じように、使徒信条が告白する神を信じているからです。私たちも同じです。私たちも同じ神を信じているのです。
詩篇第113編を読むと、神を信じるとは一体どういうことなのがよく分かります。神を信じるとは神を賛美すること、神を礼拝すること、神に祈ること。私たちはブラジルであろうと座間であろうと、神を礼拝して生きています。「日の昇る所から日の沈む所まで主の名は賛美される。」
4節には「主はすべての国を超えて高くいまし、その栄光は天を超える」とあります。5節には、神が「高きところに座し」ておられるとあります。ある意味で、ここはよく分かる。「神様」のイメージ通りとも言えそうです。それが6から9節になると様子が変わります。「(神は)天にあっても地にあっても、低きに下ってご覧になる方。弱い人を塵の中から起こし、貧しい人を芥の中から高く上げ…子のない女を家に住まわせ」てくださる、と言います。現代とは、社会の状況も価値観も全然違う時代を背景としています。しかし言わんとしているのは、悲しみ、希望を抱けず、どん底に沈み込むような人々のところへ神はくだってきてくださる、ということです。私たちの信じる神は低きにくだる神。神が高きところにおられるという事実の意味は、誰よりも低いところへ来てくださるお方だ、ということです。
神は御簾の向こうの玉座にどっかり座って私たちを眺めるお方ではありません。私たちの信じる神は真に落ち着きなく、天から私たちのいる低きところへ降ってきてくださいました。愛に胸かきむしられて、落ち着いてはいられずに、来てくださったのです。私たちはこの神を信じています。その事実が私たちのあり方を、生き方を定めるのです。私たちは神に落ち着くことのない愛へと促されています。
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