2024年8月11日「私は信じます ー 『私』を発見する場所」
聖書:コリントの信徒への手紙一15:1~11
説教題:私は信じます ー 「私」を発見する場所
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皆さんはこれまでの人生の危機の時、どのようにしてそれを乗り越えてこれらたのでしょうか。あるいは今危機の中にあるなら、どこに助けがあるのでしょうか?私は、無理にでも聖書の御言葉に向き合わされた経験が、危機の時の最大の助けになりました。先日、潮田健治先生が25日の礼拝予告を送ってくださいました。それをまじまじと見ながら、やはり御言葉だと思いました。聖書の御言葉、福音の言葉こそが私たちの助けであり救いです。本当にそうです。今、ここにいる私たちさがみ野教会の助けは、福音の言葉です。2000年間、教会はそうやって歩んできました。
使徒信条は聖書が語る福音の言葉の結晶のようなものです。輝く言葉です。「使徒」信条という名前ですが、その成り立ちについて古い伝説があります。5世紀頃と思われる文献にこのような記録があります。「最初にシモン・ペトロが言った。『わたしは、全能の父なる神を信じます。』彼の弟アンデレが、『その独り子、イエス・キリストを』、ゼベダイの子ヤコブが『彼は聖霊と処女マリアから生まれた』…」と続きます。つまり、12人の使徒たちが一言ずつ言い表した信仰の言葉が合わさって使徒信条が生まれた、というのです。とても魅力的な話ですが、何百年も前から作り話だと明らかになっています。ちょっと残念です。ただ、使徒たちが信じた信仰が受け継がれて使徒信条が生まれたということは確かです。聖書が告白する信仰の結晶なのですから。
実際には、使徒信条は古代から教会が続けて来た「洗礼」の場面と深く関わっているようです。何を信じたら、どう信じたら、洗礼を受けることができるのか?代々の教会が洗礼の際に問うた言葉がかなり長い時間をかけて整えられて、私たちに伝えられている使徒信条として結集していきました。私たちも同じです。使徒信条が告白する信仰を私も受け継いで洗礼を授けられた。
使徒パウロが「最も大切なこととして私があなた方に伝えたのは、私も受けたものです(Iコリ15:3)」と言っています。そうして主イエス・キリストの十字架と復活の出来事への信仰が確認されていく。ここでパウロが「私も受けたもの」と言っている「受ける」という言葉ですが、ラテン語訳ではtradoという単語なのだそうです。英語のtradition(伝統)やtrade(交換・トレード)の語源になった言葉です。さがみ野教会の伝統は、さがみ野教会の前の世代から今の世代に手渡され、次世代に手渡すもので生まれます。野球の球団の間で選手がトレードされる場合、ある選手が次の球団に手渡され、相手方の球団から別の選手が手渡されます。tradoは、手渡すということです。私たちは、主イエス・キリストの福音を使徒たちから手渡された2000年間のバトンタッチの最後のところにいます。だから私たちにとっていちばん大切なことは、使徒が告白し、代々の教会が手渡し続けてきた、キリストの福音を受け取り、信じ、次の人に手渡すことです。
福音です。福音の言葉こそ、私たちにとって最も大切なことです。福音を共に聞き、神に祈り賛美するこの礼拝こそが私たちの生命線です。教会にとって最も大切なことは、福音の出来事が起こる礼拝に他なりません。
パウロは、主イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかけられたこと、三日目に復活したこと、ケファに現れ、12人に現れ、その後、500人以上のきょうだいたちに同時に現れたと言います。そうやって、パウロもこの教会で御言葉を語ってきたのでしょう。そして、最後にパウロは記します。「そして最後に、月足らずで生まれたような私にまで現れました。私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中では最も小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって、今の私があるのです。」代々の教会が受け取り、手渡し、私たちのところにまで来た信仰告白。それは、最後に「私にまで」と付け加わって完成します。私もこの出来事の当事者の一人にして頂いている!この神の起こしてくださる出来事を経験するのが、教会なのです。私たちは共に神を礼拝し、御言葉に聞き、信仰を告白する。その営みによってここで神と出会う。さがみ野教会は、これまでもそうであったようにこれからも、私たちのキリストとの出会いの現場なのです。ここで神の御業が出来事となっています。
説教題:私は信じます ー 「私」を発見する場所
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皆さんはこれまでの人生の危機の時、どのようにしてそれを乗り越えてこれらたのでしょうか。あるいは今危機の中にあるなら、どこに助けがあるのでしょうか?私は、無理にでも聖書の御言葉に向き合わされた経験が、危機の時の最大の助けになりました。先日、潮田健治先生が25日の礼拝予告を送ってくださいました。それをまじまじと見ながら、やはり御言葉だと思いました。聖書の御言葉、福音の言葉こそが私たちの助けであり救いです。本当にそうです。今、ここにいる私たちさがみ野教会の助けは、福音の言葉です。2000年間、教会はそうやって歩んできました。
使徒信条は聖書が語る福音の言葉の結晶のようなものです。輝く言葉です。「使徒」信条という名前ですが、その成り立ちについて古い伝説があります。5世紀頃と思われる文献にこのような記録があります。「最初にシモン・ペトロが言った。『わたしは、全能の父なる神を信じます。』彼の弟アンデレが、『その独り子、イエス・キリストを』、ゼベダイの子ヤコブが『彼は聖霊と処女マリアから生まれた』…」と続きます。つまり、12人の使徒たちが一言ずつ言い表した信仰の言葉が合わさって使徒信条が生まれた、というのです。とても魅力的な話ですが、何百年も前から作り話だと明らかになっています。ちょっと残念です。ただ、使徒たちが信じた信仰が受け継がれて使徒信条が生まれたということは確かです。聖書が告白する信仰の結晶なのですから。
実際には、使徒信条は古代から教会が続けて来た「洗礼」の場面と深く関わっているようです。何を信じたら、どう信じたら、洗礼を受けることができるのか?代々の教会が洗礼の際に問うた言葉がかなり長い時間をかけて整えられて、私たちに伝えられている使徒信条として結集していきました。私たちも同じです。使徒信条が告白する信仰を私も受け継いで洗礼を授けられた。
使徒パウロが「最も大切なこととして私があなた方に伝えたのは、私も受けたものです(Iコリ15:3)」と言っています。そうして主イエス・キリストの十字架と復活の出来事への信仰が確認されていく。ここでパウロが「私も受けたもの」と言っている「受ける」という言葉ですが、ラテン語訳ではtradoという単語なのだそうです。英語のtradition(伝統)やtrade(交換・トレード)の語源になった言葉です。さがみ野教会の伝統は、さがみ野教会の前の世代から今の世代に手渡され、次世代に手渡すもので生まれます。野球の球団の間で選手がトレードされる場合、ある選手が次の球団に手渡され、相手方の球団から別の選手が手渡されます。tradoは、手渡すということです。私たちは、主イエス・キリストの福音を使徒たちから手渡された2000年間のバトンタッチの最後のところにいます。だから私たちにとっていちばん大切なことは、使徒が告白し、代々の教会が手渡し続けてきた、キリストの福音を受け取り、信じ、次の人に手渡すことです。
福音です。福音の言葉こそ、私たちにとって最も大切なことです。福音を共に聞き、神に祈り賛美するこの礼拝こそが私たちの生命線です。教会にとって最も大切なことは、福音の出来事が起こる礼拝に他なりません。
パウロは、主イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかけられたこと、三日目に復活したこと、ケファに現れ、12人に現れ、その後、500人以上のきょうだいたちに同時に現れたと言います。そうやって、パウロもこの教会で御言葉を語ってきたのでしょう。そして、最後にパウロは記します。「そして最後に、月足らずで生まれたような私にまで現れました。私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中では最も小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって、今の私があるのです。」代々の教会が受け取り、手渡し、私たちのところにまで来た信仰告白。それは、最後に「私にまで」と付け加わって完成します。私もこの出来事の当事者の一人にして頂いている!この神の起こしてくださる出来事を経験するのが、教会なのです。私たちは共に神を礼拝し、御言葉に聞き、信仰を告白する。その営みによってここで神と出会う。さがみ野教会は、これまでもそうであったようにこれからも、私たちのキリストとの出会いの現場なのです。ここで神の御業が出来事となっています。
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