2024年8月4日「私は信じます ー 信仰への旅立ち」
使徒信条講解①
聖書:マルコによる福音書6:1-6
説教題:「私は信じます ーー 信仰への旅立ち」
音声
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
動画
今日から主日礼拝の説教を私が担当するときには基本的に「使徒信条」に従って御言葉に聞いていきます。今私たちの教会に起きていることを考えて、まさに今こそ使徒信条に耳を傾けたいと願っています。私たち神を信じる者にとって、起こる出来事はすべて信仰の問です。神を信じる者として、今起きている出来事を神に問われている。だからこそ、代々の教会が告白してきた信仰の言葉を、今の私たちの言葉として獲得したいと願っています。
聖書はしばしば信仰を旅のイメージで描いています。アブラハムもダビデも、一つ所には留まらずに旅をしました。旅の中で危機に見舞われ、その中で神を信じて生きていました。そういう信仰の旅路の中での集中した信仰表現が聖書の中には時々登場しています。申命記26:5-9などはその一つです。使徒信条もキリスト教会が同じ信仰の旅路で結んだ告白の実りです。代々の教会はこういう告白や信条の言葉を大切にしてきました。ルターやカルヴァンの改革運動でも、明らかに使徒信条が一つの道標になっています。私たちも、この危機の時にあって使徒信条によって立ち上がりたいのです。使徒信条は元はラテン語ですが、「クレドー(私は信じます)」という言葉で始まります。今日は最初ですから、この「信じる」ということを思い巡らしたいと思っています。
聖書はしばしば信仰を旅のイメージで描いています。アブラハムもダビデも、一つ所には留まらずに旅をしました。旅の中で危機に見舞われ、その中で神を信じて生きていました。そういう信仰の旅路の中での集中した信仰表現が聖書の中には時々登場しています。申命記26:5-9などはその一つです。使徒信条もキリスト教会が同じ信仰の旅路で結んだ告白の実りです。代々の教会はこういう告白や信条の言葉を大切にしてきました。ルターやカルヴァンの改革運動でも、明らかに使徒信条が一つの道標になっています。私たちも、この危機の時にあって使徒信条によって立ち上がりたいのです。使徒信条は元はラテン語ですが、「クレドー(私は信じます)」という言葉で始まります。今日は最初ですから、この「信じる」ということを思い巡らしたいと思っています。
事実の中には、信じて初めて明らかになる事実というものがあります。主イエスが十字架にかけられたというのは、恐らく当時のいろいろな史料を調べれば誰もが認めうる事実でしょう。しかし主が死者の中から復活したというのは信じなければ理解できない事実、信仰の事実です。しかし他方では思います。「信仰の事実」などというのは、言い逃れではないか?事実は「事実」であって、理性的に、客観的に判断すれば誰にでも納得できるものではないか。信じなければ分からない事実などという非理性的なものは、そもそも「事実」の名に値しないのではないか?
しかし時に理性は私たちを欺きます。戦争が終わりません。互いに極めて理性的に自分たちが正しいと考えています。理性が人を欺く。主イエスの故郷の人々も理性的です。イエスが大工だということも、マリアの息子だということも理性的に見た客観的事実です。彼らはイエスがマリアというただの村娘の息子である事実に躓いた。理性が何か大切なものを見えなくさせました。
先ほど、イエスが神の子なら人々を納得させれば良いのにと申しました。実はこれは十字架にかけられたイエスへの罵声と同じ言葉です。マタイ27:42,43参照。傲慢な言葉です。主イエスは悲しみを込めた招きの言葉を語り続けています。私たちやこの世界の不信仰にもかかわらず、主が宣言した神の国はその前進をやめない。私たちにはこの福音が託されています。
聖書:マルコによる福音書6:1-6
説教題:「私は信じます ーー 信仰への旅立ち」
音声
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今日から主日礼拝の説教を私が担当するときには基本的に「使徒信条」に従って御言葉に聞いていきます。今私たちの教会に起きていることを考えて、まさに今こそ使徒信条に耳を傾けたいと願っています。私たち神を信じる者にとって、起こる出来事はすべて信仰の問です。神を信じる者として、今起きている出来事を神に問われている。だからこそ、代々の教会が告白してきた信仰の言葉を、今の私たちの言葉として獲得したいと願っています。
聖書はしばしば信仰を旅のイメージで描いています。アブラハムもダビデも、一つ所には留まらずに旅をしました。旅の中で危機に見舞われ、その中で神を信じて生きていました。そういう信仰の旅路の中での集中した信仰表現が聖書の中には時々登場しています。申命記26:5-9などはその一つです。使徒信条もキリスト教会が同じ信仰の旅路で結んだ告白の実りです。代々の教会はこういう告白や信条の言葉を大切にしてきました。ルターやカルヴァンの改革運動でも、明らかに使徒信条が一つの道標になっています。私たちも、この危機の時にあって使徒信条によって立ち上がりたいのです。使徒信条は元はラテン語ですが、「クレドー(私は信じます)」という言葉で始まります。今日は最初ですから、この「信じる」ということを思い巡らしたいと思っています。
聖書はしばしば信仰を旅のイメージで描いています。アブラハムもダビデも、一つ所には留まらずに旅をしました。旅の中で危機に見舞われ、その中で神を信じて生きていました。そういう信仰の旅路の中での集中した信仰表現が聖書の中には時々登場しています。申命記26:5-9などはその一つです。使徒信条もキリスト教会が同じ信仰の旅路で結んだ告白の実りです。代々の教会はこういう告白や信条の言葉を大切にしてきました。ルターやカルヴァンの改革運動でも、明らかに使徒信条が一つの道標になっています。私たちも、この危機の時にあって使徒信条によって立ち上がりたいのです。使徒信条は元はラテン語ですが、「クレドー(私は信じます)」という言葉で始まります。今日は最初ですから、この「信じる」ということを思い巡らしたいと思っています。
事実の中には、信じて初めて明らかになる事実というものがあります。主イエスが十字架にかけられたというのは、恐らく当時のいろいろな史料を調べれば誰もが認めうる事実でしょう。しかし主が死者の中から復活したというのは信じなければ理解できない事実、信仰の事実です。しかし他方では思います。「信仰の事実」などというのは、言い逃れではないか?事実は「事実」であって、理性的に、客観的に判断すれば誰にでも納得できるものではないか。信じなければ分からない事実などという非理性的なものは、そもそも「事実」の名に値しないのではないか?
しかし時に理性は私たちを欺きます。戦争が終わりません。互いに極めて理性的に自分たちが正しいと考えています。理性が人を欺く。主イエスの故郷の人々も理性的です。イエスが大工だということも、マリアの息子だということも理性的に見た客観的事実です。彼らはイエスがマリアというただの村娘の息子である事実に躓いた。理性が何か大切なものを見えなくさせました。
先ほど、イエスが神の子なら人々を納得させれば良いのにと申しました。実はこれは十字架にかけられたイエスへの罵声と同じ言葉です。マタイ27:42,43参照。傲慢な言葉です。主イエスは悲しみを込めた招きの言葉を語り続けています。私たちやこの世界の不信仰にもかかわらず、主が宣言した神の国はその前進をやめない。私たちにはこの福音が託されています。
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