2024年7月28日「何の妨げもなし」

聖書:使徒言行録28・30~31
説教題:「何の妨げもなし」


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聖書は現実に意味や光を照らし続けて、この世にもう一つの現実、物語があることを伝え続けています。

それに応えた人は、もう一つの人生を、この世界にもう一つの歴史を、作って来ました。ローマ帝国が世界のすべてだと思っていた時代に、世界に現われた、もう一つの物語、歴史があるのだと。こうして聖書は「地の果てまで、…証人」となった人々の姿を描きます。ルカはその筆の最後に書きました。「パウロは、…全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」 現実には捕らわれの身でありながら、しかし、まったく自由にもう一つの現実、物語に生きる人の姿でした。

そして、それは私たちの歩みでもあると。さがみ野教会は今、教会合同という痛みの道を進んでいますが、現実はそのように困惑し、道が閉ざされたようであっても、しかし、さがみ野教会はこの聖書に記述されたことを繰り返しているのだ/いくのだということなのです。教会は、現実を越えてもう一つの歴史を作って来たし、これからも作り続けていくのです。「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続け」る道を、私たちは歩き続けます。鎖につながれていても(26:29)、「全く自由に何の妨げもない」ものを私たちは見ているのです。鎖につながれた現実は確かにあっても、神の国のこと、イエス・キリストのことについては、自由である、と。私たちは、そこに軸足を置いているのです。すると、現実の不自由は、一体誰のことか…、といったように見えてくるのです。事実、パウロはテモテに宛てて書いた手紙の中で、こう言っています。「この福音のために私は苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。」(2テモテ2章9節)つながれていない神の言葉に、自分は生きているのだ、と。そこに軸足があるのだ、と。そういう歴史を作っている。だから、どのような鎖からも自由になっていると。

主イエスはガリラヤの漁師に言われました。「わたしについて来なさい」そこに神の国がありました。汚れた霊に取りつかれた男に「この人から出て行け」と言われた時、そこに神の国がありました。家の天井から友人によって釣吊り降ろされた男に「あなたの罪は赦される」と言われた時、そこに神の国がありました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言われた時、そこに神の国がありました。ユダヤ人の律法を破ると非難された時、そこに神の国がありました。人に言えない病気のために後ろからそっと服に触れた女性に「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。そこに神の国がありました。死んだ少女に「起きなさい」と言われました。そこに神の国がありました。十字架と復活。誰の目にも物語の終わりと見えた、そこに、神の国がありました。その事実を伝えるさがみ野教会の皆さんの歩み。ここに、神の国があるのです。神の国に生きる限り、皆さんの前には何の妨げもない。皆さんは自由な人なのです。

皆さんは、世の中の人には見えない、しかし確かにそびえたつ海嶺として、今日まで、この土地にもう一つの歴史を築いてこられました。今、自分は鎖につながれたと思うことがあるかもしれない。しかし、この礼拝で、神の国を先取って祝い、神の国に生きる喜びに生きています。海嶺としてそびえたっている皆さんは、「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続け」る、その教会であり、その一人なのです。

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