2024年7月21日「それぞれのガリラヤ」

聖書:ルカによる福音書4:16~31
説教題:それぞれのガリラヤ

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イエス様は公生涯をガリラヤ地方でスタートしたことが語られています。ガリラヤ宣教を始めると、諸会堂で称賛を受けられ、故郷ナザレの会堂に入られました。そこでイエス様はイザヤ書の朗読が終わると席に座られました。人々はイザヤの預言についての解き明かしを期待していたのではないでしょうか。人々の注目の中「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」と語りました。これはイザヤ書の解き明かしではなく預言が成就したと宣言されたのです。イエス様の口から直接、御言葉が語られた時に預言者たちが語り続けてきた救い主が、目の前に立っておられ、ご自身から宣言してくださったのです。

それを聞いた人たちは「驚いた」とあります。そして、その話を聞きイエス様を褒め称えたのですが、彼らは気づいたのです。イエス様がヨセフとマリアの子であり大工の息子として育ったことを。その知っている事が妨げとなって真の救い主として宣言されたことを分からなくしてしまっているのです。さらにイエス様は、旧約聖書に記されているエリヤとエリシャの話をします。それは、自分たちイスラエル人こそ神の救いに与るのだと思っている人々には救いが与えられず、彼らが異邦人として蔑んでいる人々に救いが与えられた話です。それと同じことが、今このナザレで起っているとイエス様は指摘されたのです。エリヤとエリシャの話を聞いたナザレの人たちの怒りは爆発しました。イエス様に対する驚きは殺意へと変わり、まさに崖っぷちに立たされました。

しかし、「イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」とあります。抗うこともなく戦うこともなく、通り抜けて先に行かれたのです。そこからガリラヤ宣教は始まります。

ナザレの人々は、イエス様のことをよく知っていることが躓きとなりました。私たちも「福音」を聴くことに慣れてしまって知ったつもりになると、それが躓きとなることがあるのです。「もう十分だ、崖から突き落とそう」という過ちに陥りやすいのです。私たちは「福音」という主の恵みの時が与えられたのです。その恵みを受け取っていきましょう。

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