2024年7月7日「キリストの恵みを祈りつつ」
聖書:フィリピの信徒への手紙第4章21から23節
説教題:キリストの恵みを祈りつつ
*今週でフィリピの信徒への手紙の講解説教が最終回を迎えました。
音声
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
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ずいぶん長い時間をかけて読んできたフィリピの信徒への手紙を今日終えます。この間何度かご紹介しましたが、レンブラントの「獄中の使徒パウロ」という絵が私は大好きです。エフェソの信徒への手紙をしたためていると思われる老パウロが描かれている。牢獄の中に射す光の中、一言ひとことをじっと考えながら手紙を書いています。私たちに神の言葉を、福音の言葉を届けようとする一人の説教者です。
このフィリピの信徒への手紙も、やはりパウロが獄中で書きました。パウロがフィリピ教会の一人ひとりを思いつつ書き、届けられ、皆で読んだ。やがてそれは他の教会でも回覧され、これを読みながらたくさんのキリスト者達が神を礼拝しました。パウロが手紙を書いたときにはそのようなことは思ってもみなかったに違いないのですが、やがてこの手紙は聖書を構成する一書として収められることになりました。私たちのところにも届けられている。2000 年間、キリスト教会はこの手紙の言葉に耳を傾けて神を礼拝してきました。どのようなときにも、何があろうとも、この手紙が証しするキリストの福音を信じて生きてきました。
ナチの時代に非合法の牧師補研修所の所長として活動したH.J. イーヴァントという人がいます。ナチが支配するドイツで若い牧師補たちにした講義録が残っています。このようなことを言っています。「この世界は、神の言葉を根絶することができる。教会も没落することがある。教会が没落することなどないと言い張ることは、褒められた話ではない。……教会の存続は奇蹟だ。教会のすべての秩序が崩れても、われわれは説教しなければならない。」ここで言う「説教」は、牧師がしている聖書の話だけを指すわけではなく、キリスト教会の福音の証しと言い換えてもよいと思います。私たちキリスト教会は、どのようなときにも、何があろうとも、キリストの福音を証しする。
そのキリストの福音を、パウロはここでこのように言います。「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にありますように。」ここで告げられているキリストの恵みは、どのようなときにも、何があろうとも、決して変わってしまうことがないのです。
パウロはこの手紙を受け取るフィリピ教会の人々を思い浮かべながらこの言葉を書いたのではないかと思います。「キリスト・イエスにあるすべての聖なる者たちによろしく」と言っています。すべての聖なる者たち。フィリピ教会には、パウロがマケドニア州に渡って出会い、キリストへと導かれたリディアとその家族がいます。この町でパウロが投獄されたときの看守、自殺しようとしたところをパウロに救われて洗礼を受けるに至った人もいます。いろいろな顔を思い浮かべていたでしょうし、パウロがまだ会ったことのない新しい人がいることをも喜んでいたに違いない。それにパウロの側にも「一緒にいるきょうだちたち」がいます。エパフロディトや他の仲間がいたのでしょう。それだけではなく「皇帝の家の人たち」も一緒にいました。皇帝のために働く奴隷たちのようです。パウロの牢獄の獄吏も含まれていたかもしれません。彼らもパウロとの出会いを通して、キリストの恵みを信じたのだと思います。
「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にありますように。」私たちは、自分は聖なる者とは言えないとか、神の恵みには値しない私だとすぐに考えてしまいがちです。しかし私たちを聖なる者、即ち神ご自身のものとしてくださるのは神さまです。私のことを私よりも良く知った上で恵みをくださるのはキリストです。だから私たちは神の恵みの事実を信じるのです。
説教題:キリストの恵みを祈りつつ
*今週でフィリピの信徒への手紙の講解説教が最終回を迎えました。
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ずいぶん長い時間をかけて読んできたフィリピの信徒への手紙を今日終えます。この間何度かご紹介しましたが、レンブラントの「獄中の使徒パウロ」という絵が私は大好きです。エフェソの信徒への手紙をしたためていると思われる老パウロが描かれている。牢獄の中に射す光の中、一言ひとことをじっと考えながら手紙を書いています。私たちに神の言葉を、福音の言葉を届けようとする一人の説教者です。
このフィリピの信徒への手紙も、やはりパウロが獄中で書きました。パウロがフィリピ教会の一人ひとりを思いつつ書き、届けられ、皆で読んだ。やがてそれは他の教会でも回覧され、これを読みながらたくさんのキリスト者達が神を礼拝しました。パウロが手紙を書いたときにはそのようなことは思ってもみなかったに違いないのですが、やがてこの手紙は聖書を構成する一書として収められることになりました。私たちのところにも届けられている。2000 年間、キリスト教会はこの手紙の言葉に耳を傾けて神を礼拝してきました。どのようなときにも、何があろうとも、この手紙が証しするキリストの福音を信じて生きてきました。
ナチの時代に非合法の牧師補研修所の所長として活動したH.J. イーヴァントという人がいます。ナチが支配するドイツで若い牧師補たちにした講義録が残っています。このようなことを言っています。「この世界は、神の言葉を根絶することができる。教会も没落することがある。教会が没落することなどないと言い張ることは、褒められた話ではない。……教会の存続は奇蹟だ。教会のすべての秩序が崩れても、われわれは説教しなければならない。」ここで言う「説教」は、牧師がしている聖書の話だけを指すわけではなく、キリスト教会の福音の証しと言い換えてもよいと思います。私たちキリスト教会は、どのようなときにも、何があろうとも、キリストの福音を証しする。
そのキリストの福音を、パウロはここでこのように言います。「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にありますように。」ここで告げられているキリストの恵みは、どのようなときにも、何があろうとも、決して変わってしまうことがないのです。
パウロはこの手紙を受け取るフィリピ教会の人々を思い浮かべながらこの言葉を書いたのではないかと思います。「キリスト・イエスにあるすべての聖なる者たちによろしく」と言っています。すべての聖なる者たち。フィリピ教会には、パウロがマケドニア州に渡って出会い、キリストへと導かれたリディアとその家族がいます。この町でパウロが投獄されたときの看守、自殺しようとしたところをパウロに救われて洗礼を受けるに至った人もいます。いろいろな顔を思い浮かべていたでしょうし、パウロがまだ会ったことのない新しい人がいることをも喜んでいたに違いない。それにパウロの側にも「一緒にいるきょうだちたち」がいます。エパフロディトや他の仲間がいたのでしょう。それだけではなく「皇帝の家の人たち」も一緒にいました。皇帝のために働く奴隷たちのようです。パウロの牢獄の獄吏も含まれていたかもしれません。彼らもパウロとの出会いを通して、キリストの恵みを信じたのだと思います。
「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にありますように。」私たちは、自分は聖なる者とは言えないとか、神の恵みには値しない私だとすぐに考えてしまいがちです。しかし私たちを聖なる者、即ち神ご自身のものとしてくださるのは神さまです。私のことを私よりも良く知った上で恵みをくださるのはキリストです。だから私たちは神の恵みの事実を信じるのです。
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