2024年6月23日「新しい人として」

聖書:エフェソの信徒への手紙2:11〜22
説教題:新しい人として

音声


動画



私たちは「遠く離れていた」「二つのもの」で、そこには敵意すらあったのです。しかしキリストは、遠く離れていたものを「近い者」、二つのものを「一つに」された。「一人の新しい人に造り変え」られたのだ、と繰り返します。洗礼を受けるということは、キリストによって二つのものが一つになることだ。一人の新しい人間が誕生することなのでした。

『この世に生きるキリスト者』という本の中に「平和の空間」について書いている文章がありました。「教会には平和がある。それは台風の目のようなものであって、この世の嵐のただ中に、平静な空間を作っている」というのです。第一次大戦が終わった後、フランス軍に占領されていたドイツのある地方で、教会の礼拝にフランス人将校(その地域の占領軍、敵)が出席したのです。聖餐のとき、皆、前に立つのです。緊張が走りました。はたして彼の横に立ったのは、もっともフランス軍を憎む、その町の市長であったと。ここに「教会」の姿があるとその本で紹介します。「一人の新しい人に造り上げ」られた、「新しい人」の物語がここにあると。

キリスト者である私たちは、この世の景色、時代の景色の中に埋もれてしまうのではありません。キリストがその十字架によって命をささげ、復活の命により「二つのものを一つに」し、「壁を取り壊し」、「一人の新しい人に造り上げて平和を実現し」、「一つの体として神と和解させ」てくださった者として、私たちは、ここに立ち上がるのです。

今日、世界中で、物理的にも精神的にも様々な壁が作られています。聖書は、神を礼拝する神殿にその壁があったと伝えています。一生懸命ということは、たとえば神を礼拝するために一生懸命になると、間違いを犯さないないために「規則と戒律づくめの律法」を作るのです。そうすることで、異質を排除する。自分を厳格にすればするほど、違った者に対する「敵意という隔ての壁」が、いよいよ高く、厚くなるわけです。こうした「敵意の壁」は、多くの人の心の中に、「ウイルス」のように忍び寄り、変質しながら高く高く築かれている。こうして私たちは実に多くの壁、差別、敵意という隔ての壁を、作っている。
ところが、驚くことに、それが今は消えている、というのです。ここが大事なのです。「キリストは、ご自分において二つのものを一人の新しい人に造り変えて、平和をもたらしてくださいました。十字架を通して二つのものを一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼしてくださったのです。」ご自分の血を流し、肉を裂いて、自ら傷を負って、ご自分の命によって、敵意を滅ぼされた!

「新しい人」になろうと思ってなれるものではありません。そうです、なるのではない。「このキリストによって、私たち両方の者が一つの霊にあって、御父に近づくことができるのです。」できるということは、今はまだそうなっていない。しかし、キリストが十字架で敵意を滅ぼしてくださった以上、できる、と言い切ります。先進坑によって、キリストによって、もう、そうなっているのです。キリストの血と肉が献げられている以上、私たちは、もう「新しい人」の方へ動き始めている。「このキリストによって…できるのです」

私たちは、キリスト者、キリストの血によって、先進坑、突破口が開かれた後に続く者だったのです。いつも、けんかしている人がいました。ある時、相手の人が道を歩くのが見えました。いつもなら、「あいつ、どこに行くんだ。」しかし、その時、はっと気づきました。イエス・キリストはあの人のためにも十字架で命を捨てた、それほど愛された人が、道を歩いている」と。平和は、イエス・キリストの十字架を通して、動き出すのです。

この記事へのコメント

中瀬悦子
2024年06月28日 15:49