2024年6月9日「神は慈しみに満ちた父」

フィリピの信徒への手紙4:19〜20
説教題:神は慈しみに満ちた父

音声


動画



今日の『日々の聖句』の新約はルカによる福音書第12章6節でした。「五羽の雀は二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神の前で忘れられてはいない。」この御言葉は、前後も併せて読むとかなり印象が変わると思います。「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れるな」と始まって、本当に恐れるべきは神だという内容のことが書かれています。私がこの御言葉でとても印象的なのは、ある少女が「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れるな」という御言葉をもっとも愛するという話を聞いたことです。神さまへの深い信頼の言葉です。

鳥つながりというわけではありませんが、マタイによる福音書第6章26節もとても印象的な御言葉です。「空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりも優れた者ではないか。」主イエスが神の父としての慈しみを教えてくださった御言葉です。神は私たちの慈しみ深い父でいてくださる。この神を「私の父、私たちの父」とお呼びすることが許されているということこそ、私たちの神を信じる喜びです。

今朝の20節にこのようにあります。「私たちの父なる神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」パウロは「私たちの父なる神」と万感の思いを込めて書き記したのではないかと思います。神の父としての慈しみに私たちは生かされている!私も、あなたたちも!その事実を思うとき、もう神を賛美する以外何もありません。

「私たちの父なる神」の「私たち」という言葉を考えるときにとても興味深いのは、直前の19節では少し違う表現を使っている点です。「私の神は…あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」私の神、と言っています。この手紙を読む度に、何度でも思い起こしたいのは、これが獄中で書かれたという事実です。牢獄に捕らえられている私を生かしてくださった私の神は、あなたたちの必要をも必ず満たしてくださる。ここにはそういうパウロの信仰をぶつけるような思いが込められています。

この19節は直訳するとこのようになります。「私の神は、あなたがたのすべての必要を満たしてくださるでしょう。ご自分の富に応じて、栄光の中で、キリスト・イエスの中で。」神ご自身の富、栄光、キリスト・イエスと三つの事柄に言及しています。

「栄光」はすぐ20節で再び登場してくる。父なる神の栄光をほめたたえています。主の祈りを思い起こすことができます。「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。」そう言ってこの祈りは終わる。キリスト者は誰でもこの祈りを祈ります。神の栄光を讃えて、日毎夕ごとに私たちは生きています。それは「キリスト・イエスの中で」の営みです。「キリスト・イエスにあって」と訳されることの多いこの表現をパウロは愛していました。例え獄中にいても、私はキリストの中にいる。キリストにすっぽりと包み込まれている。その事実に一心に目を注ぐとき、「神ご自身の富」ということの意味が明らかになってきます。コリントの信徒への手紙二第8章9節にこのようにあります。「あなたがたは私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためでした。」キリストは私たちを神の前に豊かにしてくださった。ここに父の慈しみがあるのです。

この記事へのコメント