2024年5月26日「立ち上がろう、笑いの奉仕へ」
聖書:ルカによる福音書6:17〜21
説教題:立ち上がろう!笑いの奉仕へ
音声
動画
「貧しい人々は幸いである。」「今飢えている人々」「今泣いている人々」その後、「人々が…憎むとき」と続きますが、私たちが普通、不幸だろうと思うことが、「幸いである」というのです。その見方が逆になっています。見方が変わってしまう、というのです。
相鉄線がJR直通運転になって以来、私たちがいつも使っている駅に、「新宿」行きの電車が来るわけです。ほかにも、本数は限られてはいますが「武蔵浦和」「大宮」「川越」「西高島平」「浦和美薗」行き。かなり不思議な感覚です。子どもの時に味わった、ワクワクする感覚です。そこまでつながっているということは、もう、いつもの駅が、いつもの駅ではなくなっている、ということでしょう。違う世界への入口になった、といってもよい。
私たちキリスト者(キリスト教)の信仰を考えれば、普段の生活が、ある日からイエス・キリストに、そして「神の国」につながる、直通運転を始める、ということです。信じるという、礼拝の生活というホームに立つのです。すると、普段の生活が普段の生活でなくなる。つながった「向こう」から見ると、「さがみ野」という、いつもの駅が、いつもの町が、全く違う駅に見えてくるのです。現実は、「病気を治してもらうために来ていた」人たちがあふれていた。私たちの日常は、普段と同じ。にもかかわらず、イエス・キリストと、そしてイエス・キリストが宣べ伝える神の国につながる、つながっていることで、そのプラットホームに立つことで、「あなたがたは笑うようになる。」こんなにうれしいもの、ワクワクするものに変わるのです。自分の日常に新しい気づき、すなわち意味の発見をする。そのとき、私たちは、ワクワクするし、笑えるようになるのです。さらには、笑いを、周りに拡げることが出来るのです。私たちにはそういうプラットホーム、礼拝、この礼拝堂が、あるのです。天に結ばれたところから今の状況を見る、そういう生活設計するなら、初めの言葉を使うなら、天につながる直通運転をする、そのプラットホームに立つと、そこから今の状況を見ると、同じ現実なのに意味が変わるのです。喜び踊る。ワクワクしたものに、意味が変わるのです。
そういう者として、弟子たち、キリスト者は、教会は、この世から呼び出されているのです。呼び出され、そしてまた、戻されるわけです。いつもと同じ町へと!
さがみ野教会の隣に、大塚平安教会があります。この教会の草創期から教会をけん引してきた人に、角田敏太郎という人がいました。彼は、仕事中に重大事故に巻き込まれました。重体でした。—あとは端折りますが― 障碍者となりながらも職場に復帰できるようになった、…まではいいのですが、しかし、酒におぼれたハチャメチャな生活をするようになりました。厚木駅勤務のある日、お酒の入った赤い顔で立っていると、後ろから声がかかった。「駅員さん、あなた、教会に行きたいのではありませんか。」「明日、9時、ここで待っていてください。」これが大塚平安教会との出会いにつながりました。彼の人生は変わりました。
彼がどん底に居た時に、声をかけた人があったのです。この人は、いつもその駅を使っているうちに、一人の駅員さんをじっと見つめ、見つめているうちに、その後ろにある叫びや悲しみや、その思いを受け止め、その声を聞き、そこで声をかけたのです。
礼拝というプラットホームに立つと、一人の人がどん底に居る時、そこでかける声になり、その人が涙の人から、笑う人になる、尊い奉仕へ導かれます。やがて笑いが生まれる。そのことに奉仕する者として、私たちは、今日もまた、礼拝に、この礼拝堂というプラットホームに召し出されているのです。
説教題:立ち上がろう!笑いの奉仕へ
音声
動画
「貧しい人々は幸いである。」「今飢えている人々」「今泣いている人々」その後、「人々が…憎むとき」と続きますが、私たちが普通、不幸だろうと思うことが、「幸いである」というのです。その見方が逆になっています。見方が変わってしまう、というのです。
相鉄線がJR直通運転になって以来、私たちがいつも使っている駅に、「新宿」行きの電車が来るわけです。ほかにも、本数は限られてはいますが「武蔵浦和」「大宮」「川越」「西高島平」「浦和美薗」行き。かなり不思議な感覚です。子どもの時に味わった、ワクワクする感覚です。そこまでつながっているということは、もう、いつもの駅が、いつもの駅ではなくなっている、ということでしょう。違う世界への入口になった、といってもよい。
私たちキリスト者(キリスト教)の信仰を考えれば、普段の生活が、ある日からイエス・キリストに、そして「神の国」につながる、直通運転を始める、ということです。信じるという、礼拝の生活というホームに立つのです。すると、普段の生活が普段の生活でなくなる。つながった「向こう」から見ると、「さがみ野」という、いつもの駅が、いつもの町が、全く違う駅に見えてくるのです。現実は、「病気を治してもらうために来ていた」人たちがあふれていた。私たちの日常は、普段と同じ。にもかかわらず、イエス・キリストと、そしてイエス・キリストが宣べ伝える神の国につながる、つながっていることで、そのプラットホームに立つことで、「あなたがたは笑うようになる。」こんなにうれしいもの、ワクワクするものに変わるのです。自分の日常に新しい気づき、すなわち意味の発見をする。そのとき、私たちは、ワクワクするし、笑えるようになるのです。さらには、笑いを、周りに拡げることが出来るのです。私たちにはそういうプラットホーム、礼拝、この礼拝堂が、あるのです。天に結ばれたところから今の状況を見る、そういう生活設計するなら、初めの言葉を使うなら、天につながる直通運転をする、そのプラットホームに立つと、そこから今の状況を見ると、同じ現実なのに意味が変わるのです。喜び踊る。ワクワクしたものに、意味が変わるのです。
そういう者として、弟子たち、キリスト者は、教会は、この世から呼び出されているのです。呼び出され、そしてまた、戻されるわけです。いつもと同じ町へと!
さがみ野教会の隣に、大塚平安教会があります。この教会の草創期から教会をけん引してきた人に、角田敏太郎という人がいました。彼は、仕事中に重大事故に巻き込まれました。重体でした。—あとは端折りますが― 障碍者となりながらも職場に復帰できるようになった、…まではいいのですが、しかし、酒におぼれたハチャメチャな生活をするようになりました。厚木駅勤務のある日、お酒の入った赤い顔で立っていると、後ろから声がかかった。「駅員さん、あなた、教会に行きたいのではありませんか。」「明日、9時、ここで待っていてください。」これが大塚平安教会との出会いにつながりました。彼の人生は変わりました。
彼がどん底に居た時に、声をかけた人があったのです。この人は、いつもその駅を使っているうちに、一人の駅員さんをじっと見つめ、見つめているうちに、その後ろにある叫びや悲しみや、その思いを受け止め、その声を聞き、そこで声をかけたのです。
礼拝というプラットホームに立つと、一人の人がどん底に居る時、そこでかける声になり、その人が涙の人から、笑う人になる、尊い奉仕へ導かれます。やがて笑いが生まれる。そのことに奉仕する者として、私たちは、今日もまた、礼拝に、この礼拝堂というプラットホームに召し出されているのです。
この記事へのコメント