2024年5月12日「神が私を強めてくださるから」
聖書:フィリピの信徒への手紙4:10〜13
説教題:「神が私を強めてくださるから」
音声
動画
ツツジの季節も少しずつ終わりを迎え、徐々に水田に水が張られる時期を迎えているようです。芽吹きや花の咲く季節は、私たちの心に安らぎをもたらします。10節にこのようにありました。「さて、あなたがたが私への心遣いを、ついにまた表してくれたことを、私は主にあって非常に喜びました。」この「また表してくれた」という言葉には「花を咲かせる」という意味もあるのだそうです。美しい言葉です。フィリピの教会の人々の思いが、花のように咲いている。
ただしそれは決して呑気でのどかな話ではありません。この手紙を書いているパウロは、今、牢獄の中にいます。この牢獄は現代日本の刑務所とは全然違います。毎日の食事が保証されているような場所ではなかったようです。自分で自分の食事を調達しなければならない。しかしそのようなことは不可能です。ですから協力してくれる人に頼らなければ生きていかれなかった。そして、フィリピの教会の人々がパウロに心遣いを表した。本当に嬉しかったと思います。まるで花が咲くように、パウロを慰め、励ましたのではないでしょうか。教会を通して、パウロは主イエス・キリストにある慰めや喜びを知ったのです。
「私は主にあって非常に喜びました。」この「主にあって」という言葉ですが、直訳をすると「主の中で」という表現です。「主に属する者として」という意味のようです。私たちは主イエス・キリストに属する者、主のものです。
ハイデルベルク信仰問答は、生きているときにも死ぬときにも私たちを支える慰めは何かと問い、このように言います。「私が私自身のものではなく、私の真実な救い主、イエス・キリストのものであることであります。」生きているときだけではない。私たちが死にゆくとき、そのプロセスの全てにわたって、私たちは私たち自身のものではなく、イエス・キリストのものに他ならない。その事実が私をどんな時にお慰める。私たちは主イエス・キリストに属するもの、主のものです。主の中に生かされているし、死を迎えていくときにも主の中にいます。パウロはその事実をフィリピ教会の心遣いを通して深く味わったのではないでしょうか。
更にパウロは言います。「私は、自分の置かれた境遇に満足することを学びました。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹することにも、飢えることにも、有り余ることにも、乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」すごい言葉です。どうしてここまで断言できるのだろうと、正直に言って少し怯んでしまいます。贅沢とまでは言わなくても、あまり不自由せずに生きていきたいし、できれば食べることに心配せずに生きていかれたらと思います。金持ちとまでは言わずとも、できれば人並みに生活できれば…。ところが、このパウロという人はそうは言わないのです。あらゆる境遇に対処する、と言う。なぜそう断言できるのか。それは「私を強めてくださる方」、主イエス・キリストにあってのことだ、と言う。キリストにあって、私には全てのことが可能。生活ぶりが富んでいるか貧しいかということだけには留まらない。自身のこと、家族のこと、自分の生きる環境のこと、その他あらゆることに於いて、神がしてくださることを信頼する。キリストが私を強めてくださっている。自分のおかれた境遇や環境にすぐに不満を抱いて周囲のせいにしがちな私にとっては、驚くような信仰です。しかし、これこそ信仰者のものの見方なのだと思います。
説教題:「神が私を強めてくださるから」
音声
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ツツジの季節も少しずつ終わりを迎え、徐々に水田に水が張られる時期を迎えているようです。芽吹きや花の咲く季節は、私たちの心に安らぎをもたらします。10節にこのようにありました。「さて、あなたがたが私への心遣いを、ついにまた表してくれたことを、私は主にあって非常に喜びました。」この「また表してくれた」という言葉には「花を咲かせる」という意味もあるのだそうです。美しい言葉です。フィリピの教会の人々の思いが、花のように咲いている。
ただしそれは決して呑気でのどかな話ではありません。この手紙を書いているパウロは、今、牢獄の中にいます。この牢獄は現代日本の刑務所とは全然違います。毎日の食事が保証されているような場所ではなかったようです。自分で自分の食事を調達しなければならない。しかしそのようなことは不可能です。ですから協力してくれる人に頼らなければ生きていかれなかった。そして、フィリピの教会の人々がパウロに心遣いを表した。本当に嬉しかったと思います。まるで花が咲くように、パウロを慰め、励ましたのではないでしょうか。教会を通して、パウロは主イエス・キリストにある慰めや喜びを知ったのです。
「私は主にあって非常に喜びました。」この「主にあって」という言葉ですが、直訳をすると「主の中で」という表現です。「主に属する者として」という意味のようです。私たちは主イエス・キリストに属する者、主のものです。
ハイデルベルク信仰問答は、生きているときにも死ぬときにも私たちを支える慰めは何かと問い、このように言います。「私が私自身のものではなく、私の真実な救い主、イエス・キリストのものであることであります。」生きているときだけではない。私たちが死にゆくとき、そのプロセスの全てにわたって、私たちは私たち自身のものではなく、イエス・キリストのものに他ならない。その事実が私をどんな時にお慰める。私たちは主イエス・キリストに属するもの、主のものです。主の中に生かされているし、死を迎えていくときにも主の中にいます。パウロはその事実をフィリピ教会の心遣いを通して深く味わったのではないでしょうか。
更にパウロは言います。「私は、自分の置かれた境遇に満足することを学びました。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹することにも、飢えることにも、有り余ることにも、乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」すごい言葉です。どうしてここまで断言できるのだろうと、正直に言って少し怯んでしまいます。贅沢とまでは言わなくても、あまり不自由せずに生きていきたいし、できれば食べることに心配せずに生きていかれたらと思います。金持ちとまでは言わずとも、できれば人並みに生活できれば…。ところが、このパウロという人はそうは言わないのです。あらゆる境遇に対処する、と言う。なぜそう断言できるのか。それは「私を強めてくださる方」、主イエス・キリストにあってのことだ、と言う。キリストにあって、私には全てのことが可能。生活ぶりが富んでいるか貧しいかということだけには留まらない。自身のこと、家族のこと、自分の生きる環境のこと、その他あらゆることに於いて、神がしてくださることを信頼する。キリストが私を強めてくださっている。自分のおかれた境遇や環境にすぐに不満を抱いて周囲のせいにしがちな私にとっては、驚くような信仰です。しかし、これこそ信仰者のものの見方なのだと思います。
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