2024年4月28日「イエスに錨おろせば」
聖書:ヨハネによる福音書15:18~16:4a
説教題:イエスに錨降ろせば
音声
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
動画
いきなり「迫害の予告」と、何やら穏やかでない見出しがついています。イースターを過ぎ、復活の主イエスに従う者が、当然、経験することがらを考える事になると思います。
主イエスは言われます。この世(人々)は、「あなた方を憎む」「あなたがたを迫害する」「会堂から追放する」「殺す」。言葉を変えて言えば、この世は自分と異質なものを排除するのです。なぜ自分と異質なものを排除するかというと、主イエスを遣わされた方を知らないからだ(15:21、16:3)。自分勝手に、これで自分は神に奉仕していると考えるからです(16:2)。神に奉仕しているという熱心はある。しかし、熱心はあっても、いったい、どこに立っているか、つながっているかで、同じ熱心でも、こんなに違ってくる、というのです。
大磯に、澤田美喜記念館という博物館があります。そこにはキリシタンの遺物、殉教者の歴史を語る貴重な資料が、常時展示されています。日本で、キリスト者は、命の危険を犯してまでも、祈り、礼拝を、守ろうとしたのです。私たちは、このようなキリスト者、殉教者の血の上に立っているのだということを、そこに立つと、思い知らされるのです。「世があなた方を憎む」「あなたがたを迫害する」「会堂から追放する」「殺す」人間が自分の熱心でどんどん自分勝手になっていく。それは、外国の話ではないのです。この日本の大地は、そのような、人間が自分勝手になって迫害した、その人々の血が染みこんでいるのです。今、私たちが憎まれ、迫害に遭っていないからと言って、日本にはそのようなことはないのだ、ということは、ありません。社会というものは、ユダヤ人社会にしても、この日本にしても、これが神に奉仕することだ、これが正義だと言って自分と違うところに立つ者を排除しようとするのです。主イエスが十字架で殺されたのは、この世の正義に立たなかったからです。「私の父」、神に遣わされた、だからこの世の正義に立たない、という明確な意識を持っていたのです。
弟子たち、教会、私たちも、この世が主張する正義に立たないのです。これが今日のポイントになります。「あなたがたは世から出た者ではない。私があなたがたを世から選び出した。」この世の正義に立たない、ただ一つの理由は、主イエスに選び出された、イエスに属する者である。これが彼らの、そして教会の、私たちの、アイデンティティなのです。
どんなに熱心でも、どんなに知恵を働かせても、神が私たちにしてくださった、いわば縦の線、イエス・キリストの誕生と、生涯、その最期の十字架がもしなければ、私たちは横の線、お互いの正義を主張して、その強さがあるかないかで行ったり来たりするしかありません。いつまでも波間に漂うしかないのです。しかし、主イエスは、その私たちの的外れ(罪)の中に来られ、人間の的外れ、罪は、白日の下にさらされました。神に仕えるというその熱心は、「憎む」「迫害する」「会堂から追放する」ついに「殺す」という自己中心的なものに過ぎなかったのだと明らかにされたのです。
パウロは、初めはダマスコ途上で主イエスに会い、それが生涯の転機になりました。しかし、後に「母の胎にいるときから私を選び分け」られていた、と言い、さらに晩年には、神は「天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。」(1:4)と言います。
私たちの周りは自己中心の思いから来る考え方で憎み、争いに満ちています。すると、いくらでも心配は尽きない。しかし、私たちのよって立つところは、「わたしがあなたがたを世から選び出した」という主イエス・キリストの選びです。私たちは、その選びの「岩」にこそ錨を降ろしていれば、周りにどんな荒波があろうとも、恐れることはないのです。
説教題:イエスに錨降ろせば
音声
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いきなり「迫害の予告」と、何やら穏やかでない見出しがついています。イースターを過ぎ、復活の主イエスに従う者が、当然、経験することがらを考える事になると思います。
主イエスは言われます。この世(人々)は、「あなた方を憎む」「あなたがたを迫害する」「会堂から追放する」「殺す」。言葉を変えて言えば、この世は自分と異質なものを排除するのです。なぜ自分と異質なものを排除するかというと、主イエスを遣わされた方を知らないからだ(15:21、16:3)。自分勝手に、これで自分は神に奉仕していると考えるからです(16:2)。神に奉仕しているという熱心はある。しかし、熱心はあっても、いったい、どこに立っているか、つながっているかで、同じ熱心でも、こんなに違ってくる、というのです。
大磯に、澤田美喜記念館という博物館があります。そこにはキリシタンの遺物、殉教者の歴史を語る貴重な資料が、常時展示されています。日本で、キリスト者は、命の危険を犯してまでも、祈り、礼拝を、守ろうとしたのです。私たちは、このようなキリスト者、殉教者の血の上に立っているのだということを、そこに立つと、思い知らされるのです。「世があなた方を憎む」「あなたがたを迫害する」「会堂から追放する」「殺す」人間が自分の熱心でどんどん自分勝手になっていく。それは、外国の話ではないのです。この日本の大地は、そのような、人間が自分勝手になって迫害した、その人々の血が染みこんでいるのです。今、私たちが憎まれ、迫害に遭っていないからと言って、日本にはそのようなことはないのだ、ということは、ありません。社会というものは、ユダヤ人社会にしても、この日本にしても、これが神に奉仕することだ、これが正義だと言って自分と違うところに立つ者を排除しようとするのです。主イエスが十字架で殺されたのは、この世の正義に立たなかったからです。「私の父」、神に遣わされた、だからこの世の正義に立たない、という明確な意識を持っていたのです。
弟子たち、教会、私たちも、この世が主張する正義に立たないのです。これが今日のポイントになります。「あなたがたは世から出た者ではない。私があなたがたを世から選び出した。」この世の正義に立たない、ただ一つの理由は、主イエスに選び出された、イエスに属する者である。これが彼らの、そして教会の、私たちの、アイデンティティなのです。
どんなに熱心でも、どんなに知恵を働かせても、神が私たちにしてくださった、いわば縦の線、イエス・キリストの誕生と、生涯、その最期の十字架がもしなければ、私たちは横の線、お互いの正義を主張して、その強さがあるかないかで行ったり来たりするしかありません。いつまでも波間に漂うしかないのです。しかし、主イエスは、その私たちの的外れ(罪)の中に来られ、人間の的外れ、罪は、白日の下にさらされました。神に仕えるというその熱心は、「憎む」「迫害する」「会堂から追放する」ついに「殺す」という自己中心的なものに過ぎなかったのだと明らかにされたのです。
パウロは、初めはダマスコ途上で主イエスに会い、それが生涯の転機になりました。しかし、後に「母の胎にいるときから私を選び分け」られていた、と言い、さらに晩年には、神は「天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。」(1:4)と言います。
私たちの周りは自己中心の思いから来る考え方で憎み、争いに満ちています。すると、いくらでも心配は尽きない。しかし、私たちのよって立つところは、「わたしがあなたがたを世から選び出した」という主イエス・キリストの選びです。私たちは、その選びの「岩」にこそ錨を降ろしていれば、周りにどんな荒波があろうとも、恐れることはないのです。
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