2024年4月14日「いつも、どんな時も」
聖書:フィリピの信徒への手紙4:4〜7
説教題:いつも、どんな時も
音声
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主イエス・キリストを信じることは、私たちの喜びです。「主にあっていつも喜びなさい」と聖書は言います。ここには、何を喜ぶかということが書いてありません。これはすごいことだと思います。普通は何かいいことがあるから喜ぶ、ということだと思います。ひいきにしている野球のチームが勝ったとか、テストでいい点数をとることができたとか。しかしそうすると、負ければ喜べないし、ひどい成績なら憤懣やるかたないということになる。どんなに頑張ってもどうすることもできない事はいくらでもあります。喜びは人生を豊かにしてくれます。しかし、○○を喜ぶという喜びは、私たちの人生を最後までは支えてくれない。私たちの喜びにはどうしても限界があります。
ところが、聖書は「主にあっていつも喜びなさい」と言います。いつも喜びなさい、どんな時にも喜んでいなさい、と命じているのです。いつも、どんな時にも!驚くべき言葉です。私たちには喜びとはほど遠いことがたくさんあるのですから。聖書は「主にあって」と言います。主イエス・キリストを信頼して、ということでしょう。パウロはこの表現が大好きなようです。この手紙でもたびたび登場します。「主にあって。」文字通りに翻訳すると「主の中で」という字で表現されています。主イエス・キリストにすっぽり包み込まれている。良い言葉です。イエスさまに包まれている。まるで子どもが抱っこされているように、私たちも主イエスの腕に包み込まれている。悲しい時にも、不安な時にも、上手くいかなくて辛い時にも。この先の見通しが立たずに恐ろしい時にだって、主イエス・キリストが私たちを抱き寄せてくださっている。だから、私たちは主にあっていつも喜んでいられる。聖書はそう言うのです。
それにしても、次から次へと湧き出てくる厳しい現実は私たちにとってはたいへん辛いものです。6節にこのように書いてあります。「何事も思い煩ってはなりません。」思い煩い。まさにそれが私たちの大問題。目の前の出来事に心が覆い尽くされて、心が散り散りになってしまうような思いにさせられることは、誰にでもあるのではないでしょうか。佐竹明という新約聖書学の先生がこのようなことを書いておられます。「『思い煩い』とは、自分の生が完全に自分の支配下にあるとの前提に立ち、さらには、自分の設定した生の目標が無条件の妥当性を持つとの前提の上に立って、自分の能力を頼りに自分の生を確保し、自分の将来を形成しようとする努力である。」私はこれを読んで、ギクリとしました。自分で自分の生をコントロールできると思い込んでいるから思い煩うのだ、と言っています。例えば子育てしていて、子どもを自分の思い通りにしようとすると苛立ちます。子どもだって他人ですから、自分の思い通りになどなりません。自分の思いと実際の子どもの行動のギャップに思い煩いが生まれる。しかし本当は他人を自分の思い通りにしようだなんておこがましいことです。いや、自分の人生だって本当は自分の力で支配することなんてできないのです。
聖書は、思い煩いに打ち勝つ秘訣を伝えています。「どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。」求めているもの、とあります。求めて良いのです。ただそれを神に打ち明けなさい、といいます。自分の求めを達成するために自分や他人を支配しようとするのではなく、抱いた求めを神に打ち明けたらいいと聖書は言います。神に打ち明ける時、私たちはもはや自分の求めの奴隷ではなく、神の支配を受け入れる。キリストの内に包まれ、守られている。この事実にこそ、喜びがあるのです。
説教題:いつも、どんな時も
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主イエス・キリストを信じることは、私たちの喜びです。「主にあっていつも喜びなさい」と聖書は言います。ここには、何を喜ぶかということが書いてありません。これはすごいことだと思います。普通は何かいいことがあるから喜ぶ、ということだと思います。ひいきにしている野球のチームが勝ったとか、テストでいい点数をとることができたとか。しかしそうすると、負ければ喜べないし、ひどい成績なら憤懣やるかたないということになる。どんなに頑張ってもどうすることもできない事はいくらでもあります。喜びは人生を豊かにしてくれます。しかし、○○を喜ぶという喜びは、私たちの人生を最後までは支えてくれない。私たちの喜びにはどうしても限界があります。
ところが、聖書は「主にあっていつも喜びなさい」と言います。いつも喜びなさい、どんな時にも喜んでいなさい、と命じているのです。いつも、どんな時にも!驚くべき言葉です。私たちには喜びとはほど遠いことがたくさんあるのですから。聖書は「主にあって」と言います。主イエス・キリストを信頼して、ということでしょう。パウロはこの表現が大好きなようです。この手紙でもたびたび登場します。「主にあって。」文字通りに翻訳すると「主の中で」という字で表現されています。主イエス・キリストにすっぽり包み込まれている。良い言葉です。イエスさまに包まれている。まるで子どもが抱っこされているように、私たちも主イエスの腕に包み込まれている。悲しい時にも、不安な時にも、上手くいかなくて辛い時にも。この先の見通しが立たずに恐ろしい時にだって、主イエス・キリストが私たちを抱き寄せてくださっている。だから、私たちは主にあっていつも喜んでいられる。聖書はそう言うのです。
それにしても、次から次へと湧き出てくる厳しい現実は私たちにとってはたいへん辛いものです。6節にこのように書いてあります。「何事も思い煩ってはなりません。」思い煩い。まさにそれが私たちの大問題。目の前の出来事に心が覆い尽くされて、心が散り散りになってしまうような思いにさせられることは、誰にでもあるのではないでしょうか。佐竹明という新約聖書学の先生がこのようなことを書いておられます。「『思い煩い』とは、自分の生が完全に自分の支配下にあるとの前提に立ち、さらには、自分の設定した生の目標が無条件の妥当性を持つとの前提の上に立って、自分の能力を頼りに自分の生を確保し、自分の将来を形成しようとする努力である。」私はこれを読んで、ギクリとしました。自分で自分の生をコントロールできると思い込んでいるから思い煩うのだ、と言っています。例えば子育てしていて、子どもを自分の思い通りにしようとすると苛立ちます。子どもだって他人ですから、自分の思い通りになどなりません。自分の思いと実際の子どもの行動のギャップに思い煩いが生まれる。しかし本当は他人を自分の思い通りにしようだなんておこがましいことです。いや、自分の人生だって本当は自分の力で支配することなんてできないのです。
聖書は、思い煩いに打ち勝つ秘訣を伝えています。「どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。」求めているもの、とあります。求めて良いのです。ただそれを神に打ち明けなさい、といいます。自分の求めを達成するために自分や他人を支配しようとするのではなく、抱いた求めを神に打ち明けたらいいと聖書は言います。神に打ち明ける時、私たちはもはや自分の求めの奴隷ではなく、神の支配を受け入れる。キリストの内に包まれ、守られている。この事実にこそ、喜びがあるのです。
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