2024年2月25日「到達したところに基づいて、進んでいこう」
聖書:フィリピの信徒への手紙3:12〜16
説教題:到達したところに基づいて、進んでいこう
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私は思います。神さまとの関係においても、隣人との関係においても、愛のある人でありたい、と。教会で出会う人に、ご近所やいろいろなところで出会う人にも、教会に遊びに来た子どもたちにも、愛のある人として出会うことができれば、なんと幸いなことでしょう。そして、真心からの愛を込めた祈りを神さまに献げられれば。そのためには他の何よりも、主イエス・キリストを見つめ、キリストを目指して生きることなのだと思います。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」
改革者マルティン・ルターはとても筆まめな人であったようです。ルターが書いた魂への配慮に満ちた手紙がたくさん残っています。ある時、ルターはシュペンラインという修道士に宛てた手紙を書きました。この人はとてもまじめで熱心に頑張っていたようですが、周囲へのあたりが強い人で、ルターはそのことを懸念して手紙を書いたようです。ルターはシュペンラインに、間違いを犯してしまった人をも受け入れ、彼の罪をあなた自身の罪と考えなさい、と言います。それは単なる人間関係を上手くいかせるコツだとか、人間誰しもお互い様だというような処世術ではありません。この勧告に先だって、ルターは丁寧に、主イエスさまがしてくださったことを思い出そうとシュペンラインに語りかけています。神があなたの罪をご自分の罪としてくださった。キリストは私たち罪人と共にいてくださる方だ。このキリストに目を向ければ、自分の義に疲れたあなたの心も癒やされる、と言うのです。
13節に「後ろのもの」とあります。パウロがかつて誇りとしてきた出自や彼の立派な生き方のことでしょう。自分で自分に目を向けている限り、私たちは後ろのものから自由にはなれない。そうすると、私たちは傲慢になる。他人を裁き、人を傷つけることすらも誇りとするようになってしまう。しかしキリストに目を向けるなら、私たちは新しくなる。
私が今日の御言葉で特に興味を惹かれるのは15節です。「だから、完全な者は誰でも、このように考えるべきです」とあります。塚本虎二という無教会の指導者が翻訳した新約聖書がありますが、ここのところをこのように訳しています。「だから、わたし達完成された者は皆、このように考えてゆこうではないか。」完全な者、完成された者、というのは私たちのことだとパウロは言っています。ところが12節には「私は…すでに完全な者となっているわけではありません」とも言っている。矛盾しているように見えます。私たちはすでに完全な者になっているわけではない、しかし私たちは完全な者。パウロはそうに言っている。どういうことなのでしょうか。
これは決して抽象的な話ではありません。先ほどのシュペンラインは、他人に対する言葉が辛辣で、人を傷つけるものでした。他人を裁いたり、むやみに人を傷つけたりする言葉が口から飛び出してくるとき、私たちの内で一体何が起こっているのか?それは自分は完全な者だという、もしかしたら自分でも知らぬ内に湧き上がってくる自負なのかもしれません。私は既に完全な者、しかしあの人は…と。ところが、私たちは完全な者ではありません。罪人です。しかし、ルターは自分に向くその目をキリストに向けようと言います。キリストに目を上げるときに知らされるのは、その罪人の私をキリストが愛してくださったという事実です。既に救われている。私たちは義人であり、同時に罪人です。完全であり、同時に完全ではない。だからこそキリストだけに目を注いで私たちは生きるのです。
説教題:到達したところに基づいて、進んでいこう
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私は思います。神さまとの関係においても、隣人との関係においても、愛のある人でありたい、と。教会で出会う人に、ご近所やいろいろなところで出会う人にも、教会に遊びに来た子どもたちにも、愛のある人として出会うことができれば、なんと幸いなことでしょう。そして、真心からの愛を込めた祈りを神さまに献げられれば。そのためには他の何よりも、主イエス・キリストを見つめ、キリストを目指して生きることなのだと思います。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」
改革者マルティン・ルターはとても筆まめな人であったようです。ルターが書いた魂への配慮に満ちた手紙がたくさん残っています。ある時、ルターはシュペンラインという修道士に宛てた手紙を書きました。この人はとてもまじめで熱心に頑張っていたようですが、周囲へのあたりが強い人で、ルターはそのことを懸念して手紙を書いたようです。ルターはシュペンラインに、間違いを犯してしまった人をも受け入れ、彼の罪をあなた自身の罪と考えなさい、と言います。それは単なる人間関係を上手くいかせるコツだとか、人間誰しもお互い様だというような処世術ではありません。この勧告に先だって、ルターは丁寧に、主イエスさまがしてくださったことを思い出そうとシュペンラインに語りかけています。神があなたの罪をご自分の罪としてくださった。キリストは私たち罪人と共にいてくださる方だ。このキリストに目を向ければ、自分の義に疲れたあなたの心も癒やされる、と言うのです。
13節に「後ろのもの」とあります。パウロがかつて誇りとしてきた出自や彼の立派な生き方のことでしょう。自分で自分に目を向けている限り、私たちは後ろのものから自由にはなれない。そうすると、私たちは傲慢になる。他人を裁き、人を傷つけることすらも誇りとするようになってしまう。しかしキリストに目を向けるなら、私たちは新しくなる。
私が今日の御言葉で特に興味を惹かれるのは15節です。「だから、完全な者は誰でも、このように考えるべきです」とあります。塚本虎二という無教会の指導者が翻訳した新約聖書がありますが、ここのところをこのように訳しています。「だから、わたし達完成された者は皆、このように考えてゆこうではないか。」完全な者、完成された者、というのは私たちのことだとパウロは言っています。ところが12節には「私は…すでに完全な者となっているわけではありません」とも言っている。矛盾しているように見えます。私たちはすでに完全な者になっているわけではない、しかし私たちは完全な者。パウロはそうに言っている。どういうことなのでしょうか。
これは決して抽象的な話ではありません。先ほどのシュペンラインは、他人に対する言葉が辛辣で、人を傷つけるものでした。他人を裁いたり、むやみに人を傷つけたりする言葉が口から飛び出してくるとき、私たちの内で一体何が起こっているのか?それは自分は完全な者だという、もしかしたら自分でも知らぬ内に湧き上がってくる自負なのかもしれません。私は既に完全な者、しかしあの人は…と。ところが、私たちは完全な者ではありません。罪人です。しかし、ルターは自分に向くその目をキリストに向けようと言います。キリストに目を上げるときに知らされるのは、その罪人の私をキリストが愛してくださったという事実です。既に救われている。私たちは義人であり、同時に罪人です。完全であり、同時に完全ではない。だからこそキリストだけに目を注いで私たちは生きるのです。
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