2024年2月12日「なすべきことはただ一つ」
聖書:フィリピの信徒への手紙3:12〜14
説教題:なすべきことはただ一つ
音声
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
動画
先日、嬉しい出会いがありました。ある公立学校の校長先生がキリスト者でいらして、私が牧師と知ってお声がけくださったのです。公立学校でキリスト者が教師として仕えておられて、しかも校長として子どもたちの学びの場、成長するための共同体を形成しておられるというのは、本当に貴重なことだと思います。
最近、共に生きる共同体ということをよく考えます。例えば学校ということを考えてみると、最近は保護者同士の連絡も学校との連絡も、LINEが多用されます。お互いの顔どころか声も分かりません。保護者と教師の面談の機会も以前よりも減っていて、知り合う機会が少なくなっています。人間関係が希薄になると、損したくないという気持ちが強くなってくる。仲間意識が芽生えにくい。学校だけの話ではないと思います。お互いの弱さを支え合ったり、時間をかけて関係を構築したりする共に生きる共同体は社会の至る所で失われています。私は、教会こそ、究極の共に生きる共同体だと信じています。教会は泣く人と共に泣き、喜ぶ人と共に喜ぶ共同体。そうは言っても私はやはり時代の子で、すぐに与えるよりも受ける方がいいという反応をしてしまいます。しかしそうであるからこそ、キリストの愛が生み出す共同体で生きていきたい、と願います。
今日は教会員総会があります。去年のこと、これからのことを話し合います。どういうふうに考えていけばいいのだろうということを思い巡らしています。そんな中で、最近私は、「神の家族」という事を考えています。私たちは血縁によらず、仲のよさによらず、ただキリストによって神の家族にして頂いている。私たちさがみ野教会もそうですし、高座教会もそうです。私たちは共に生きる「神の家族」という共同体として結び合わされている。
「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」神の賞。目標。救いの完成ということでしょう。私たちはそれを目指している。私たちはキリストに捕らえられてキリスト者になった。しかしまだ完成はしていない。既に得たわけではない。私たちは既に完全な者になったわけでもない。先ほどの流れで言えば、私たちは神の家族にして頂いた。しかし、まだ完成はしていないのです。キリストが共に生きるようにと結んでくださった私たちは、神の家族としての完成を目指して走っている。
私たちは、自分はもう神に救われたのだと一人で満足して山奥で暮らしているわけではありません。この世界で生きいています。だから、悩みがあり、痛みがあり、瑕がある。だからこそ、キリストにあって神が下さる賞、救いの完成をしっかりと見つめて、それ目指して走って行く。この世界に生きている以上、私たちには痛むこと、苦しむこと、悩むことがたくさんあります。しかし家族のすばらしいところは、痛みや苦しみや悩みが必ずしもマイナスだけにはならないということです。共に苦しいことを負い合って、共に励まし慰め合う。「自分はそんな幸せな家族を経験したことがない。」そう思われるかもしれません。だからこそ、私たちは神の家族に招かれているのです。私たちは主イエス・キリストを見詰め、この方を目指して走る共同体です。私たちは血縁で結ばれているのではありません。これまでの思い出で結ばれているのでもない。キリストと、キリストにあって神が下さる賞が私たちの絆です。神はそういう神の家族にこの世界のすべての人を招いておられます。この世界の中でここに救いがあると証言をするために、私たちは神に招かれたのです。
説教題:なすべきことはただ一つ
音声
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先日、嬉しい出会いがありました。ある公立学校の校長先生がキリスト者でいらして、私が牧師と知ってお声がけくださったのです。公立学校でキリスト者が教師として仕えておられて、しかも校長として子どもたちの学びの場、成長するための共同体を形成しておられるというのは、本当に貴重なことだと思います。
最近、共に生きる共同体ということをよく考えます。例えば学校ということを考えてみると、最近は保護者同士の連絡も学校との連絡も、LINEが多用されます。お互いの顔どころか声も分かりません。保護者と教師の面談の機会も以前よりも減っていて、知り合う機会が少なくなっています。人間関係が希薄になると、損したくないという気持ちが強くなってくる。仲間意識が芽生えにくい。学校だけの話ではないと思います。お互いの弱さを支え合ったり、時間をかけて関係を構築したりする共に生きる共同体は社会の至る所で失われています。私は、教会こそ、究極の共に生きる共同体だと信じています。教会は泣く人と共に泣き、喜ぶ人と共に喜ぶ共同体。そうは言っても私はやはり時代の子で、すぐに与えるよりも受ける方がいいという反応をしてしまいます。しかしそうであるからこそ、キリストの愛が生み出す共同体で生きていきたい、と願います。
今日は教会員総会があります。去年のこと、これからのことを話し合います。どういうふうに考えていけばいいのだろうということを思い巡らしています。そんな中で、最近私は、「神の家族」という事を考えています。私たちは血縁によらず、仲のよさによらず、ただキリストによって神の家族にして頂いている。私たちさがみ野教会もそうですし、高座教会もそうです。私たちは共に生きる「神の家族」という共同体として結び合わされている。
「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」神の賞。目標。救いの完成ということでしょう。私たちはそれを目指している。私たちはキリストに捕らえられてキリスト者になった。しかしまだ完成はしていない。既に得たわけではない。私たちは既に完全な者になったわけでもない。先ほどの流れで言えば、私たちは神の家族にして頂いた。しかし、まだ完成はしていないのです。キリストが共に生きるようにと結んでくださった私たちは、神の家族としての完成を目指して走っている。
私たちは、自分はもう神に救われたのだと一人で満足して山奥で暮らしているわけではありません。この世界で生きいています。だから、悩みがあり、痛みがあり、瑕がある。だからこそ、キリストにあって神が下さる賞、救いの完成をしっかりと見つめて、それ目指して走って行く。この世界に生きている以上、私たちには痛むこと、苦しむこと、悩むことがたくさんあります。しかし家族のすばらしいところは、痛みや苦しみや悩みが必ずしもマイナスだけにはならないということです。共に苦しいことを負い合って、共に励まし慰め合う。「自分はそんな幸せな家族を経験したことがない。」そう思われるかもしれません。だからこそ、私たちは神の家族に招かれているのです。私たちは主イエス・キリストを見詰め、この方を目指して走る共同体です。私たちは血縁で結ばれているのではありません。これまでの思い出で結ばれているのでもない。キリストと、キリストにあって神が下さる賞が私たちの絆です。神はそういう神の家族にこの世界のすべての人を招いておられます。この世界の中でここに救いがあると証言をするために、私たちは神に招かれたのです。
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