2024年1月28日「神さま、私を救ってください」
聖書:エレミヤ書17:14~18
説教題:神さま、私を救ってください
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今日は預言者エレミヤの祈りの言葉、呻きのような言葉が、この礼拝でい聞くべき神の言葉として与えられています。エレミヤは紀元前600年頃の時代に現在のパレスチナ地方で生きた人物。そう聞くとずいぶん遠い存在のように思えます。しかしこの祈りの言葉に耳を向けると、私たちと同じだと思えてきます。「主よ、癒やしてください。そうすれば私は癒やされます。私を救ってください。そうすれば私は救われます。」そう祈るこの一人の信仰者は、やはり私たちと同じように悩んだり嘆いたりしながら、それでも神さまに向かって祈りながら何とか生きていた人だったのではないでしょうか。この人も私たちと同じひとりの信仰者。そう思います。
キング牧師がこのような祈りを残しています。「主よ、私はここで正しいことをしようとしています。私はここで正しいと信じることのために立ち上がっているのです。しかし主よ、私は告白しなければなりません。私は弱いのです。私は倒れそうです。勇気を失いそうです。そして恐れています。…もう力の限界に来ています。もう何も残っていません。もう一人で立ち向かうことはできません。」この時キング牧師は公民権運動を憎む人種差別主義者の脅しを受けていました。自宅にも脅迫電話がかかってきていました。彼はひとり食卓に突っ伏して祈り始めました。その時、彼は「正義のために立て、私は世の終わりまで共にいる」という内なる声を聞いた。そして、もはや恐れることがなくなったと言います。神に祈り、神の語りかけに耳を傾けるとき、私たちはもう一度立つことができる。
エレミヤの祈りの言葉の中で、14,16,17節にある「あなた」という言葉と、16と18節にある三つの「私」という言葉は、原文のヘブル語で見てみるととても強い表現が使われています。「あなたこそ」「この私」といった具合に。祈りは、祈る相手である神さまと祈っている私との関わりの中で献げられる。エレミヤの祈りもひたすら神さまに向かおうという一途な思いが感じられるのではないでしょうか。そこまで一心に神さまに向かおうとするエレミヤは、一体何がそうさたのか。エレミヤが祈っている事情はどういうものなのか。エレミヤはこう祈ります。「ご覧ください。彼らは私に言います。『主の言葉はどこにあるのか。さあ、それを実現させてみよ』と。」人々の嘲笑に苦しんでいました。これには時代の背景があります。エレミヤが生きた時代のユダ国は、次第に悪くなっていく一方でした。周辺諸国の覇権争いの激化や国内の政治の劣化などが相俟って、坂道を転げ落ちるように国は沈んでいた。エレミヤは悔い改めて神の御もとに立ち帰ってやり直そうと繰り返し語り続けます。そうでないと私たちは滅んでしまう、と。ところが誰も耳を貸さない。自分たちが滅びるわけがないとエレミヤをあざ笑って言った。「主の言葉はどこにあるのか。さあ、それを実現させてみよ。」エレミヤは神に立ち帰ろうと語れば語るほど孤立していったのです。どんなに苦しかったかと思います。だから、エレミヤは祈りました。「あなたはご存じです。私の唇から出るものはあなたの顔の前にあります。あなたが私の恐れとなりませんように。災いの日には、あなたこそ私の逃れ場です。」神に祈り、神の語りかけに耳を傾けるとき、私たちはもう一度立つことができる。
14節に「あなたこそ、私の誉れ」とあります。この「誉れ」という言葉は、ハレルヤと同じ言葉で表現されている。賛美という意味を持つ。エレミヤは呻くような嘆きの中でなお神を賛美しつつ祈った。神こそが救いだから。同じ神に、私たちは今祈っているのです。
説教題:神さま、私を救ってください
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今日は預言者エレミヤの祈りの言葉、呻きのような言葉が、この礼拝でい聞くべき神の言葉として与えられています。エレミヤは紀元前600年頃の時代に現在のパレスチナ地方で生きた人物。そう聞くとずいぶん遠い存在のように思えます。しかしこの祈りの言葉に耳を向けると、私たちと同じだと思えてきます。「主よ、癒やしてください。そうすれば私は癒やされます。私を救ってください。そうすれば私は救われます。」そう祈るこの一人の信仰者は、やはり私たちと同じように悩んだり嘆いたりしながら、それでも神さまに向かって祈りながら何とか生きていた人だったのではないでしょうか。この人も私たちと同じひとりの信仰者。そう思います。
キング牧師がこのような祈りを残しています。「主よ、私はここで正しいことをしようとしています。私はここで正しいと信じることのために立ち上がっているのです。しかし主よ、私は告白しなければなりません。私は弱いのです。私は倒れそうです。勇気を失いそうです。そして恐れています。…もう力の限界に来ています。もう何も残っていません。もう一人で立ち向かうことはできません。」この時キング牧師は公民権運動を憎む人種差別主義者の脅しを受けていました。自宅にも脅迫電話がかかってきていました。彼はひとり食卓に突っ伏して祈り始めました。その時、彼は「正義のために立て、私は世の終わりまで共にいる」という内なる声を聞いた。そして、もはや恐れることがなくなったと言います。神に祈り、神の語りかけに耳を傾けるとき、私たちはもう一度立つことができる。
エレミヤの祈りの言葉の中で、14,16,17節にある「あなた」という言葉と、16と18節にある三つの「私」という言葉は、原文のヘブル語で見てみるととても強い表現が使われています。「あなたこそ」「この私」といった具合に。祈りは、祈る相手である神さまと祈っている私との関わりの中で献げられる。エレミヤの祈りもひたすら神さまに向かおうという一途な思いが感じられるのではないでしょうか。そこまで一心に神さまに向かおうとするエレミヤは、一体何がそうさたのか。エレミヤが祈っている事情はどういうものなのか。エレミヤはこう祈ります。「ご覧ください。彼らは私に言います。『主の言葉はどこにあるのか。さあ、それを実現させてみよ』と。」人々の嘲笑に苦しんでいました。これには時代の背景があります。エレミヤが生きた時代のユダ国は、次第に悪くなっていく一方でした。周辺諸国の覇権争いの激化や国内の政治の劣化などが相俟って、坂道を転げ落ちるように国は沈んでいた。エレミヤは悔い改めて神の御もとに立ち帰ってやり直そうと繰り返し語り続けます。そうでないと私たちは滅んでしまう、と。ところが誰も耳を貸さない。自分たちが滅びるわけがないとエレミヤをあざ笑って言った。「主の言葉はどこにあるのか。さあ、それを実現させてみよ。」エレミヤは神に立ち帰ろうと語れば語るほど孤立していったのです。どんなに苦しかったかと思います。だから、エレミヤは祈りました。「あなたはご存じです。私の唇から出るものはあなたの顔の前にあります。あなたが私の恐れとなりませんように。災いの日には、あなたこそ私の逃れ場です。」神に祈り、神の語りかけに耳を傾けるとき、私たちはもう一度立つことができる。
14節に「あなたこそ、私の誉れ」とあります。この「誉れ」という言葉は、ハレルヤと同じ言葉で表現されている。賛美という意味を持つ。エレミヤは呻くような嘆きの中でなお神を賛美しつつ祈った。神こそが救いだから。同じ神に、私たちは今祈っているのです。
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