2023年3月19日「祈ることの痛み」

聖書:マタイによる福音書6:12
説教題:祈ることの痛み

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 金曜日に子どもたちが通う小学校の卒業式で挨拶をしました。このしばらくの間何を話そうかとあれこれ思い巡らしていたのですが、改めて、子どもたちが生きる今の時代は容易ではない時代だと思います。少し前に、ある外食チェーン店で高校生がいたずらをした動画が出回って、大炎上しました。確かに彼がしてしまったことは非常に愚かで、店への迷惑は甚だしいものです。しかしそれ以上に、そこに吹き荒れる裁きの言葉はもっと恐ろしいものでした。裁きは現代の深く病んだ時代精神だと思います。

 主イエスが今日私たちに祈れと命じておられる祈りは、そういう時代の精神に対抗させます。「私たちの負い目を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」負い目というのは、借金という意味です。ルカが伝える主の祈りでは「罪」と書かれています。罪、借金、負い目。このために祈れと主はお命じになるのです。

 第一世界大戦の時、ベルギーにドイツ軍が攻めてきた。多くの町を破壊した。その次の日曜日、あるベルギーの町でいつものように礼拝が献げられ、主の祈りを祈った。この句まできたとき、祈りが止まってしまったそうです。昨日ドイツ人たちがしたことを思うと、「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく」とは祈れなくなってしまった。しかししばらくして、誰からともなく祈りが再開したというのです。この話はよく分かるのではないでしょうか。私たちはどのような思いで主の祈りを祈っているのでしょうか。

 この祈りは私たちの内側から湧き上がるものではありません。主イエスに教えていただかなくては祈ることのできない祈りです。そして、主イエスは私たちがこのように祈り続けることを求め、そう命じられたのです。ドイツに伝わる食前の祈りにこのようなものがあるそうです。「主よ、私たちにはなくてはならないものが二つあります。日ごとの糧と罪の赦しを、今日もお与えください。」毎日の食事のために祈るのと同じように、私たちは罪の赦しのために祈らなければ生きられないのです。

 主イエスはやがて、この祈りの言葉を解説するかのようにして印象深い譬え話をなさいました。ある人が王から一万タラントンという天文学的な借金をしていました。返せるはずもない。王は彼を憐れに思い、借金を帳消しにしてやりました。ところがその後で彼は自分が100日分の賃金に相当する金を貸していた仲間を見つけ、首を絞めて借金を取り立て、遂にはこの仲間を牢に入れてしまった。王はその話を聞いて怒り、彼に言います。「不届き者。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」

 この譬えを読んで気がつくのは、私たちにとっては実は「私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と祈るよりも「私たちの負い目をお赦しください」と祈る方が難しい、ということです。言葉を換えれば、自分が一万タラントン赦されたという事実はすぐに喉元過ぎて熱くなくなってしまうという恐ろしい事実に気付きます。自分が赦されなければ生きられない憐れな罪人だということを、私はすぐに忘れてしまう。しかし私はただ赦していただいただけの人間です。それだけがすべてです。そこからすべてが始まる。私たちは神の生み出す赦しの世界に生きています。だから、仲間を赦さないということは不自然なこと、あり得ないことだろうと主は言われるのです。

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