2023年3月12日「頂き物で生きる」
聖書:マタイによる福音書6:11
説教題:頂き物で生きる
音声
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ここのところ牧師室の引っ越しのための作業をしています。埃にまみれながら本の整理を しつつ、今日の主の祈りの言葉を何度も何度も心の中で繰り返してきました。「我らの日用 の糧を今日も与えたまえ。」ルターはご飯のことだけではなく、生きるために必要な生活の すべてのことをこの祈りに続けて祈ることができると言います。嬉しい言葉です。私たちの 食べるための仕事の全部のことを、神さまに祈って良いのです。そこには低級な仕事と高尚 な仕事があるのではない。毎日の皿洗いも、ちょっとサボれば溜まってしまう洗濯物の片付 けも、職場でのいろいろな労苦も、そういう喰っていくための営みはすべて主イエス様にあ って聖なるものです。
食べるためのすべて。しかし、主イエスはここではやはり特に「糧」とおっしゃっていま す。元の言葉は「パン」です。日本語でも「ご飯」と言えば米でもあるし食事全部でもある のと同じです。主イエスは食べることをとっても大事なさいました。五つのパンと二匹の魚 で5000人を養いました。主は大食漢で大酒飲みと揶揄されました。十字架にかけられる前に 最後に弟子たちとしたことは食事でした。しかも、主イエスは「パン」のために祈れとおっ しゃいます。おかずやデザートではない。生きるため、今日の命をつなぐために必要最低限 のもの、つまり命そのもののために神さまに祈る。
これは私たちを謙遜にさせる祈りです。特に現代日本のような豊かな社会に生きる私たち には。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ。」主は、私たちは神から頂かなければ生きら れないということに気付かせます。目の前の成果物は自分で働いて得たもの、努力して蓄え たもの。しかしもっと根本的には神から頂いたものです。カナの婚礼の奇蹟について、アウ グスティヌスがこのようなことを言っています。「召し使いたちが水がめに注いだものがぶ どう酒に変わったのは主のわざであるが、同様に雲が降らせたものがぶどう酒に変わったの も同じ主のわざである。このことは毎年起こるので、私たちは驚かない。それは規則的に起 こるので、驚嘆の念を失わせる。けれどもそれは、この水がめの中で起こったこと以上に熟 慮されるべきものである。」私たちが生きるために必要なものを得ているということ自体が 神の業であることを、私たちはフトすると忘れてしまうことがあるのかもしれません。
私は、頂いたもので生かされている。その事実を忘れると自己責任論が幅をきかせるよう になります。自分の力で得た、そうであるなら、貧しい人は努力が足りない。サボっている からだ。ラクして社会のやっかいになっている。......。主イエスは「我らの日用の糧を」と おっしゃいます。自己責任に捕らわれると、この「我ら」が失われてしまいます。それは、 殊にメシの話で一番露骨に現れるのかも知れません。私たちは今日のご飯についてもキリス トに救って頂かないと、生きられないのです。
「日用の糧」の日用、つまり日ごとという言葉ですが、実は少し難しい言葉のようです。用 例が少ない。日ごと、今日、明日、生きるために必要な、などの意味が推測されるそうで す。明日という意味も推測されているのは興味深いと思います。私たちは明日の命を神さま に委ねています。その「明日」は単に24時間後ではなく、大いなる明日、天の国に迎えられ る明日でもある。主は天の国の祝宴に私たちを招くために、私たちの間で罪人や徴税人との 宴会を既に始めておられる。今、私たちも招かれています。
説教題:頂き物で生きる
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ここのところ牧師室の引っ越しのための作業をしています。埃にまみれながら本の整理を しつつ、今日の主の祈りの言葉を何度も何度も心の中で繰り返してきました。「我らの日用 の糧を今日も与えたまえ。」ルターはご飯のことだけではなく、生きるために必要な生活の すべてのことをこの祈りに続けて祈ることができると言います。嬉しい言葉です。私たちの 食べるための仕事の全部のことを、神さまに祈って良いのです。そこには低級な仕事と高尚 な仕事があるのではない。毎日の皿洗いも、ちょっとサボれば溜まってしまう洗濯物の片付 けも、職場でのいろいろな労苦も、そういう喰っていくための営みはすべて主イエス様にあ って聖なるものです。
食べるためのすべて。しかし、主イエスはここではやはり特に「糧」とおっしゃっていま す。元の言葉は「パン」です。日本語でも「ご飯」と言えば米でもあるし食事全部でもある のと同じです。主イエスは食べることをとっても大事なさいました。五つのパンと二匹の魚 で5000人を養いました。主は大食漢で大酒飲みと揶揄されました。十字架にかけられる前に 最後に弟子たちとしたことは食事でした。しかも、主イエスは「パン」のために祈れとおっ しゃいます。おかずやデザートではない。生きるため、今日の命をつなぐために必要最低限 のもの、つまり命そのもののために神さまに祈る。
これは私たちを謙遜にさせる祈りです。特に現代日本のような豊かな社会に生きる私たち には。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ。」主は、私たちは神から頂かなければ生きら れないということに気付かせます。目の前の成果物は自分で働いて得たもの、努力して蓄え たもの。しかしもっと根本的には神から頂いたものです。カナの婚礼の奇蹟について、アウ グスティヌスがこのようなことを言っています。「召し使いたちが水がめに注いだものがぶ どう酒に変わったのは主のわざであるが、同様に雲が降らせたものがぶどう酒に変わったの も同じ主のわざである。このことは毎年起こるので、私たちは驚かない。それは規則的に起 こるので、驚嘆の念を失わせる。けれどもそれは、この水がめの中で起こったこと以上に熟 慮されるべきものである。」私たちが生きるために必要なものを得ているということ自体が 神の業であることを、私たちはフトすると忘れてしまうことがあるのかもしれません。
私は、頂いたもので生かされている。その事実を忘れると自己責任論が幅をきかせるよう になります。自分の力で得た、そうであるなら、貧しい人は努力が足りない。サボっている からだ。ラクして社会のやっかいになっている。......。主イエスは「我らの日用の糧を」と おっしゃいます。自己責任に捕らわれると、この「我ら」が失われてしまいます。それは、 殊にメシの話で一番露骨に現れるのかも知れません。私たちは今日のご飯についてもキリス トに救って頂かないと、生きられないのです。
「日用の糧」の日用、つまり日ごとという言葉ですが、実は少し難しい言葉のようです。用 例が少ない。日ごと、今日、明日、生きるために必要な、などの意味が推測されるそうで す。明日という意味も推測されているのは興味深いと思います。私たちは明日の命を神さま に委ねています。その「明日」は単に24時間後ではなく、大いなる明日、天の国に迎えられ る明日でもある。主は天の国の祝宴に私たちを招くために、私たちの間で罪人や徴税人との 宴会を既に始めておられる。今、私たちも招かれています。
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