2023年3月5日「戦う祈り」
聖書:マタイによる福音書6:10b
説教題:戦う祈り
音声
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聖書を読んで驚くのは、善人が一人も登場しないということです。信仰者の父と呼ばれるアブラハムは、わが身のために妻を売り渡そうとしました。父に依怙贔屓されて育ったヨセフは自身の性根の悪さも手伝って兄の妬みを買い、殺されそうになりました。モーセは若い頃には殺人を犯し、年をとって信仰の指導者になった後にも過ちを犯して約束の地に入ることを禁じられました。偉大な王ダビデは自分の不倫を隠すために忠臣を殺しました。しかし、聖書はそれにもかかわらず進む神の救いの歴史を描きます。聖書にはいろいろな出来事が記録されています。醜聞がたくさんあります。ところが本当の主人公はアブラハムやダビデや彼らを憎む人々ではなく、神さまなのです。ヨセフ物語の最後に、ヨセフは兄たちに言っています。「あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために今日のようにしてくださったのです。」
「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」「あなたの御心が行われますように」。主イエスは私たちにそう祈るように教えてくださいました。戦後すぐにスイスのバーゼルでリュティという牧師がした主の祈りの説教が残されています。この祈りの言葉についてリュティ牧師は「これは不快な祈りだ」と言います。この祈りは、キリストが救ってくださらないと私たちは滅びると認める祈りだからだ、と言うのです。戦争が終わって、バーゼルの町に新しい病院が建てられることになりました。商業施設でも娯楽施設でもなく病院が。それはすばらしい計画で、少し前まで武器や弾薬をつくるために使われていたお金が病院のために使われるのはすばらしいとリュティ牧師は言います。但し、これが私たちの我意に支配されるのでなければ、と。しかしそれが大問題です。
我意、即ちエゴイズムということでしょう。私たちにもよく分かることです。「良い事」をする動機が実はとってもエゴイスティックなものでしかないというのは、自分の心の中を見れば珍しくないのです。自分の思い通りにしたいという支配欲や、良い事をしている自分を見せたいという承認欲求や、自分のポジションや損得を守ろうとする自己中心な思いのために「良い事」をしているように振る舞うのが、私たちの現実ではないでしょうか。私たちの営みは浅はかですし、愚かです。それだけでなく惨めなほどさもしいです。善意から悪を行います。私たちの悪意はもちろんのこと、それだけではなく善意も、キリストに救っていただかなくてはどうしようもないのです。
「あなたの御心が行われますように!」これは戦いの祈りです。私たちの罪との戦いの祈りです。そして、キリストが私たちの先頭に立って祈っておられる祈りです。十字架の前夜、ゲツセマネでイエスは苦しみ、悩み、私は死ぬほど苦しいとおっしゃりながら祈られたのは「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに」ということでした。しかし主は、自業自得の罰を前にしてエゴイズムからそう祈ったのか?そうではありません。主イエスは一切十字架にかけられる理由がないのに、かけられた。私たちが主を裁いて十字架にかけ、殺したのです。私たちの罪がここに極まった。その憎しみをぶつけられた主イエスはこの杯が去ることを願いながら、なお神の御心に従いました。私たちの救いがここにしかないからです。ここで貫かれた神の心、それは私たちを救う御心。その途方もない不思議に恐れおののきます。
説教題:戦う祈り
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聖書を読んで驚くのは、善人が一人も登場しないということです。信仰者の父と呼ばれるアブラハムは、わが身のために妻を売り渡そうとしました。父に依怙贔屓されて育ったヨセフは自身の性根の悪さも手伝って兄の妬みを買い、殺されそうになりました。モーセは若い頃には殺人を犯し、年をとって信仰の指導者になった後にも過ちを犯して約束の地に入ることを禁じられました。偉大な王ダビデは自分の不倫を隠すために忠臣を殺しました。しかし、聖書はそれにもかかわらず進む神の救いの歴史を描きます。聖書にはいろいろな出来事が記録されています。醜聞がたくさんあります。ところが本当の主人公はアブラハムやダビデや彼らを憎む人々ではなく、神さまなのです。ヨセフ物語の最後に、ヨセフは兄たちに言っています。「あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために今日のようにしてくださったのです。」
「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」「あなたの御心が行われますように」。主イエスは私たちにそう祈るように教えてくださいました。戦後すぐにスイスのバーゼルでリュティという牧師がした主の祈りの説教が残されています。この祈りの言葉についてリュティ牧師は「これは不快な祈りだ」と言います。この祈りは、キリストが救ってくださらないと私たちは滅びると認める祈りだからだ、と言うのです。戦争が終わって、バーゼルの町に新しい病院が建てられることになりました。商業施設でも娯楽施設でもなく病院が。それはすばらしい計画で、少し前まで武器や弾薬をつくるために使われていたお金が病院のために使われるのはすばらしいとリュティ牧師は言います。但し、これが私たちの我意に支配されるのでなければ、と。しかしそれが大問題です。
我意、即ちエゴイズムということでしょう。私たちにもよく分かることです。「良い事」をする動機が実はとってもエゴイスティックなものでしかないというのは、自分の心の中を見れば珍しくないのです。自分の思い通りにしたいという支配欲や、良い事をしている自分を見せたいという承認欲求や、自分のポジションや損得を守ろうとする自己中心な思いのために「良い事」をしているように振る舞うのが、私たちの現実ではないでしょうか。私たちの営みは浅はかですし、愚かです。それだけでなく惨めなほどさもしいです。善意から悪を行います。私たちの悪意はもちろんのこと、それだけではなく善意も、キリストに救っていただかなくてはどうしようもないのです。
「あなたの御心が行われますように!」これは戦いの祈りです。私たちの罪との戦いの祈りです。そして、キリストが私たちの先頭に立って祈っておられる祈りです。十字架の前夜、ゲツセマネでイエスは苦しみ、悩み、私は死ぬほど苦しいとおっしゃりながら祈られたのは「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに」ということでした。しかし主は、自業自得の罰を前にしてエゴイズムからそう祈ったのか?そうではありません。主イエスは一切十字架にかけられる理由がないのに、かけられた。私たちが主を裁いて十字架にかけ、殺したのです。私たちの罪がここに極まった。その憎しみをぶつけられた主イエスはこの杯が去ることを願いながら、なお神の御心に従いました。私たちの救いがここにしかないからです。ここで貫かれた神の心、それは私たちを救う御心。その途方もない不思議に恐れおののきます。
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