2023年1月29日「主の祈り② 信頼を込めて、神を呼ぼう」

聖書:マタイによる福音書6:7~9b
説教題:信頼を込めて、神を呼ぼう

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『雪ノ下カテキズム』という信仰問答書がありますが、その第一の問答でこのように告白 しています。

問 あなたが、主イエス・キリストの父なる神に願い求め、待ち望む、救いの喜びとは、い かなる喜びですか。
答 私が、私どもを神の子としてくださる神からの霊を受けて、主イエス・キリストの父な る神を、『私の父なる神、私どもの父なる神』と呼ぶことができるようになる喜びで す。神は、いかなる時にも変わらずに私の父でいてくださり、私の喜びとなり、誇りと なってくださいます。

私たちは「父よ」と神をお呼びして祈ります。これこそ私たちの神を信じる喜びです。

祈ることを巡る御言葉に聞いていますが、今日からいよいよ主の祈りの本文に入りました。ギリシア語の原文では、冒頭は「父よ、私たちの、天におられる」という語順なので、 これに従っていきます。ですから今日は「父よ」という呼びかけに集中します。マタイが伝 えるところによると、主イエスは異邦人のようにくどくどと祈るなという話のつながりの中 で、むしろこのように祈れといって「父よ」と神をお呼びすることを教えてくださいまし た。異邦人のようにくどくどと祈るな。どういうことか。まずここでの「異邦人」というの は、外国人ということではなく主なる神を信じていない人という意味です。一説によると、 古代社会の異邦人の中には、奇妙な仕方で自分の信じる神を呼んで祈る人がいたそうです。 正しく神のお名前を呼ばないと神は祈りを聞いてくださらないと考えた。そこで、知ってい るあらゆる名前を並べて、或いはその中に神のお名前がなくても大丈夫なように意味のない 言葉を羅列して唱えまくり、どれかが神の名にかすっていることを期待し、神が聞いて祈り を叶えてくれるようにと考えた、というのです。そこにあるのは、不信感であり不安感で す。この祈りは神に届いていないのではないか、という不安。祈っても無意味ではないかと いう不信感。しかし主イエスはそういう私たちの心配は一度わきに置いてしまって、私に倣 って祈ってごらんとおっしゃいます。そう、私たちはキリストにあってちゃんと神さまをお 呼びすることができる。「父よ」、と信頼を込めて神に祈ることができるのです。

神を父とお呼びするというのは、何を意味するのでしょうか。先ほどの雪ノ下カテキズム の言葉ですが、実は私にはあまりピンときませんでした。神さまを「父」とお呼びするのは 本当にそれほど嬉しいことなのか、よく分からなかったのです。私たちにはそれぞれ父親経 験があります。それが自分が子の立場であっても、親の立場であっても。あるいは母親体験 も何らかのかたちで持っている。そのどれもが完全にはほど遠いものです。私たちの知って いる親子経験は何かの疵を抱えている。そういう私たちの「父」の延長線上に父なる神がお られるのだとしたら、それは大した喜びではないような気がします。しかし、聖書が私たち に紹介する父としての神のお姿は、それとは事情が違うようです。例えば、主イエスは失わ れた息子の父親の話をしてくださいました。あんな父親が現実にいたとしたらちょっと考え ものではないでしょうか。むしろ兄息子の怒りの方が私たちにはよく分かる。あの父親は常 識外れで規格外です。しかし神さまが私たちの父でいてくださるというのは、私たちの常識 でははかれないことです。神さまは私たちの規格を外れた慈しみの父でいらっしゃる。私た ちが「父よ」と祈るとき、私たちはこの神の子どもとして新しい父親体験を生きはじめてい るのです。

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