2023年1月22日「主の祈り① 私たちにも祈りを教えてください」
聖書:ルカによる福音書11:1~4
説教題:主の祈り① 私たちにも祈りを教えてください
音声
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二週間ほど前の礼拝でもご紹介した、ハンス・ウルス・フォン・バルタザールというカトリックの司祭と、彼のもとに来た一人の女性との対話。女性は若くして夫を喪い、私から夫を奪う神に祈ることなどできないと言って絶望していました。バルタザールは彼女を厳しく咎め、今こそ神はあなたの祈りを待っておられると、二人で一緒に主の祈りを祈りました。やがて彼女の信仰は再生した。
私たちにも祈りの言葉を失ってしまうことがあるのではないでしょうか。祈りの人の中の祈りの人である使徒パウロも言います。「私たちはどう祈るべきかを知りません。(ローマ8:26)」パウロでさえそう言わねばならないのなら…祈りを知っている人なんて、この世にいるのでしょうか。
やはりカトリックの信仰者であり哲学者である今道友信先生が『世界は涙を忘れて…』という本を書いています。世界は涙を忘れている。科学技術が発達し、文明は発展した。しかしそういう世界で人間は機械を動かすために機械の部品になってしまい、涙は敗北や喪失の象徴としか捉えられなくなっている。世界は涙を喪った。それは人間の悲惨だ。そのようなことをおっしゃっています。私は今道先生が言う「涙」はそのまま「祈り」と置き換えてもよいのではないかと思います。もしかしたら私たちは祈りを喪い、それどころか祈りを喪ったことにすら気付いていないのかもしれない。しかし本当は、誰であっても、祈らないことには本当に人間らしく生きることはできないのではないでしょうか。それだけれども、「私たちはどう祈るべきかを知りません。」
ですから、私たちも弟子たちと一緒に主イエスのもとへ行きましょう。そして一緒に言いましょう。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」そしてこの願いに応えて主イエスが私たちに教えてくださったのが、主の祈りなのです。
主の祈り。それは、バルタザールが信仰を失った一人の女と共に祈り、やがて彼女が再生せしめた祈りです。
主の祈り。それは、ペトロも、ヤコブもヨハネも、パウロも祈った祈りです。
主の祈り。それは、2000年間、星の数ほどの信仰者たちが祈った祈りです。
キリスト者とは、どういう人のことでしょうか。キリストを信じるとはどういうことでしょうか。キリスト者、それは主の祈りを祈る人のことです。キリストを信じるとは、主の祈りをわが祈りとして祈ることです。
私の心を絞り出して生まれてくる祈りは、恐らく、○○をくださいとか、□□が△△になりますようにとか、そういうことばかりだと思います。それは今道先生に言わせれば、機械の部品になってしまった自分が、もっとうまいこと良い部品になれますようにとつぶやいているようなものなのかもしれません。しかし主の祈りは、「主の」祈りです。私たちから絞り出した言葉ではなく、主イエス様ご自身が教えてくださった祈りです。それこそ主の祈りを祈るときに一番嬉しい事実です。私たちは主ご自身の言葉を祈っている!
祈っていると、気が散ってしまうこともあります。祈っているはずなのに今晩のおかずに心が持っていかれたり、仕事の締め切りばかりが心を覆ったり。どうぞそれでも諦めずに、とにかく祈ってください、主の祈りを!この祈りは私たちを変える力があります。主ご自身の言葉だからです。主の祈りを祈り始めるまさにその時、私たちはキリスト者として生きはじめているのです。
説教題:主の祈り① 私たちにも祈りを教えてください
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二週間ほど前の礼拝でもご紹介した、ハンス・ウルス・フォン・バルタザールというカトリックの司祭と、彼のもとに来た一人の女性との対話。女性は若くして夫を喪い、私から夫を奪う神に祈ることなどできないと言って絶望していました。バルタザールは彼女を厳しく咎め、今こそ神はあなたの祈りを待っておられると、二人で一緒に主の祈りを祈りました。やがて彼女の信仰は再生した。
私たちにも祈りの言葉を失ってしまうことがあるのではないでしょうか。祈りの人の中の祈りの人である使徒パウロも言います。「私たちはどう祈るべきかを知りません。(ローマ8:26)」パウロでさえそう言わねばならないのなら…祈りを知っている人なんて、この世にいるのでしょうか。
やはりカトリックの信仰者であり哲学者である今道友信先生が『世界は涙を忘れて…』という本を書いています。世界は涙を忘れている。科学技術が発達し、文明は発展した。しかしそういう世界で人間は機械を動かすために機械の部品になってしまい、涙は敗北や喪失の象徴としか捉えられなくなっている。世界は涙を喪った。それは人間の悲惨だ。そのようなことをおっしゃっています。私は今道先生が言う「涙」はそのまま「祈り」と置き換えてもよいのではないかと思います。もしかしたら私たちは祈りを喪い、それどころか祈りを喪ったことにすら気付いていないのかもしれない。しかし本当は、誰であっても、祈らないことには本当に人間らしく生きることはできないのではないでしょうか。それだけれども、「私たちはどう祈るべきかを知りません。」
ですから、私たちも弟子たちと一緒に主イエスのもとへ行きましょう。そして一緒に言いましょう。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」そしてこの願いに応えて主イエスが私たちに教えてくださったのが、主の祈りなのです。
主の祈り。それは、バルタザールが信仰を失った一人の女と共に祈り、やがて彼女が再生せしめた祈りです。
主の祈り。それは、ペトロも、ヤコブもヨハネも、パウロも祈った祈りです。
主の祈り。それは、2000年間、星の数ほどの信仰者たちが祈った祈りです。
キリスト者とは、どういう人のことでしょうか。キリストを信じるとはどういうことでしょうか。キリスト者、それは主の祈りを祈る人のことです。キリストを信じるとは、主の祈りをわが祈りとして祈ることです。
私の心を絞り出して生まれてくる祈りは、恐らく、○○をくださいとか、□□が△△になりますようにとか、そういうことばかりだと思います。それは今道先生に言わせれば、機械の部品になってしまった自分が、もっとうまいこと良い部品になれますようにとつぶやいているようなものなのかもしれません。しかし主の祈りは、「主の」祈りです。私たちから絞り出した言葉ではなく、主イエス様ご自身が教えてくださった祈りです。それこそ主の祈りを祈るときに一番嬉しい事実です。私たちは主ご自身の言葉を祈っている!
祈っていると、気が散ってしまうこともあります。祈っているはずなのに今晩のおかずに心が持っていかれたり、仕事の締め切りばかりが心を覆ったり。どうぞそれでも諦めずに、とにかく祈ってください、主の祈りを!この祈りは私たちを変える力があります。主ご自身の言葉だからです。主の祈りを祈り始めるまさにその時、私たちはキリスト者として生きはじめているのです。
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