2023年1月15日「外に出る」

聖書:コロサイの信徒への手紙1:16~20
説教題:外に出る

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 古くから教会に伝わる「祈りの法、信仰の法(lex orandi, lex credendi)」という合言葉があります。どう祈っているかということは、その人がどう信じているかということそのものだ、という意味です。人は祈るとおりに信じる。それは、真理だと思います。

 今日は使徒パウロの手紙が与えられています。コロサイの信徒への手紙は獄中書簡と呼ばれる手紙の一つで、パウロが牢獄の中から書き送ったものです。そんなところでこの人はどのように神を信じ、またどのように教会への手紙を書いたのでしょうか。今日の箇所は全体が分かち書きになっています。詩文です。恐らく、当時の教会で歌われていた讃美歌であったと考えられます。かつてパウロがコロサイ教会で仲間たちと共に賛美したことにちがいない。獄中でその詞を思い起こしながら、手紙にその言葉を書いているのです。「御子は見えない神のかたちであり…」と。

 今日の御言葉を読んで驚くのは、そのスケールの大きさです。天地万物の創造から万物の神との和解にまで至る。宇宙的なスケールの大きさを感じます。パウロは今狭く苦しい獄中にいます。しかし彼の信仰はつながれてはいません。賛美は祈りの一つです。彼はこのように賛美し、このように祈り、このように信じていたのです。パウロはキリストを見上げる信仰者として生きた。

 改革者カルヴァンがこのような文章を書いています。「これまで論じられたところにもとづいて、われわれは、人間というものがどれほど、いっさいの善に欠け、またむなしいか、――そのため、己が救いのいっさいの手段を、どんなに持たないかをはっきり見抜くのである。そこで、人は窮迫のうちにあって、支えてくれる助けを求めるならば、自分の外に出て、他のところにこれをとらえねばならない。」自分の外に出て、と言っています。この先を読むと、具体的に言って「外」というのはイエス・キリストを意味していることが分かります。私たちはあまりにも惨めに善を欠いたむなしいものであって、自分で自分を救うことが全くできない。だからキリストにしか救いようがない。自分の内や、自分の境遇、そういったものに目を注ぐのを止めてキリストを見つめよう。カルヴァンはそのように言います。そして、外なるキリストに目を向けるとは、具体的には、キリストにあって神に祈る事に他ならないのです。

 パウロがコロサイ教会の仲間たちへ共に賛美したあの歌を書き送ったとき、その前後に印象深い言葉を記しました。「罪の赦し」、「あなたがたも、かつては神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対してきました。」神を敵として生きてきた私たちの罪が指摘されています。カルヴァンも、私たちが全く善に欠け、むなしいものであることを指摘していました。これらの言葉は机上で考え出された理念や理屈ではありません。パウロもカルヴァンも、実際にそういう時代の精神と戦っていました。具体的な問題です。私たちも世にはびこる時代精神と戦っています。例えば去年来、神を信じることは非人間的で愚かだという空気が強くなりました。現代はそうやって人間らしい生き方を求めながら、結局はとても非人間的な社会になりました。神と敵対しているからです。私たちも時代の子です。キリストはそういう私たちを神と和解させてくださいました。キリストが私たちの平和になられたのです。私たちは自分の外に出てキリストに祈る。そこから社会再生が始まるのです。

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