2023年1月8日「祈りの場所」

聖書:マタイによる福音書6:1~18
説教題:祈りの場所

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 皆さん毎日祈りをしておられることと思います。神さまを呼びながら生きています。しかもそれはキリスト者だけではないのではないかと思います。正月にはたくさんの人が初詣に行きます。そこで何かの祈りをするためです。誰もが何らかの意味で祈ることを知っているのではないでしょうか。私は小さな頃から教会に行っていました。祈ることを教わってきましたし、子どもの時から祈ってきました。その内容はとても稚拙でした。しかし、それでも祈ることは知っていたのだと思います。小さな子どもも祈ります。しかし、他方では「祈ってください」と言われると戸惑ってしまうということもあるのではないかと思います。教会に行ってみて、何かのときに祈ってほしいと求められて冷や汗をかいたという経験は多くの人がしたことがあるのではないでしょうか。自分の拙い祈りに比べて、まわりの人はずいぶん立派に祈ると途方に暮れたことあるのではないでしょうか。

 確かに、祈ることには練習が必要です。修練と言った方がいいかもしれません。しかしその修練というのは、それらしい祈りの文句を身につけるとか、立派な祈りの言葉を暗記するとか、そのようなことではありません。祈りの修練。それは、自分が祈るときに聖なる神の御前にいるという事実を畏れ、畏れることにますます習熟することです。

 今日は少し長い箇所を読んでいますが、全体を貫く主題は1節です。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられない。」ここでは三つの善行が言及されています。施し、祈り、断食です。三つに共通していることは、どれについても、主イエスはこれを人前で行わずに隠れてするようにおっしゃいます。隠れてこっそり施す。奥の部屋で戸を閉じて祈る。断食しているのを気付かせないように身なりを整える。なぜか。隠れたところにおられるあなたたちの父、隠れたことを見ておられるあなたたちの父が報いてくださるからだ、と主は言われます。つまり、人前で善行をすると人に誉められてしまう、そうではなくてあなたたちの父である神に誉めていただくために、神さま以外の誰も知らないところで、ただ神さまの御前で施し、祈り、断食せよと言われるのです。祈るというのは、ただ聖なる神さまの御前に出ること、すべての目から自由になって神さまだけを見上げることです。

 ある人からこのようなことを言われたことがあります。自分の祈りがどうも嘘っぽく感じる。白々しく思えて仕方がない。そう思うと、もう祈りたくない。多くの人が感じたことのある率直な思い出はないでしょうか。主イエスは「奥の部屋に入って戸を閉め」て祈れと命じています。窓ガラスも電気もない時代ですから、そこは真っ暗な部屋でしょう。祈っている自分の手さえ見えない。ちょうど、右手が施しをしているのを左手に知らせないのと同じように、自分の目からも祈る自分の手が見えなくなる。祈りは神さまの御前に出ることであって、そこでは自分自身からも自由です。自分の祈りへの自分の感想に縛られる必要もないし、そのために「祈りたくない」という不信仰に付き合う必要もない。私たちはただ神さまにこの目を注いで祈る自由に招かれている。

 主イエスはこの祈りを施しと断食の間でお教えになりました。祈りは社会的な態度を取ることと自己実現の放棄の間にあります。神だけを一心に見つめることは、生きることそのものなのです。

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