2022年12月25日クリスマス礼拝「平和の歌」

聖書:ルカによる福音書2:8~21
説教題:平和の歌

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 23日に葬儀を行ったNさんのお嬢様、栗原伝道所で育てられた方ですが、葬儀に際して書いて頂いたお父様の思い出としてクリスマスの話を教えてくださいました。クリスマスになると家族全員で讃美歌を歌うのが恒例だったそうです。「サンタクロースのプレゼントやキラキラしたクリスマス以上に特別な幸福観に包まれた思い出です」と書いておられました。

 昨日、さがみ野教会でもイブの礼拝を献げました。小さな礼拝です。しかし、たくさんのクリスマスの讃美歌を歌いました。幸福でした。去年のこの時期は讃美歌は一節のみに制限していましたから、クリスマスの讃美歌をフルで歌うのは久しぶりでした。クリスマスにはたくさんの讃美歌があります。今日の聖書の御言葉には、天の大群の讃美歌が登場します。忘れることができないのは、この讃美歌が響いたのは闇夜だった、ということです。旧約聖書にこのような言葉があります。「闇の中を歩んでいた民は大いなる光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝いた。」この世界が暗闇に包まれている。今年絶対に忘れることができないのは、今も戦禍にさらされている人々がいるということです。私たちの町にも、キラキラしたクリスマスの陰で傷ついている人や孤独な気持ちの人もいることでしょう。一体どこに光が見えるのでしょうか。

 「さて、その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が現れ、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」光は神さまが照らす、と言います。しかも、「主の天使が現れ」と書いてありますが、この「現れる」というのは、極至近距離に立つという意味です。天高く飛んでいるのではありません。目の前に天使が立っている。そして言うのです。「恐れるな」と。これもまた本当にありがたい言葉です。私たちは恐れながら毎日過ごしていますから。これから一体どうなっていくのだろう。大切な人や家族、あるいは自分自身がどうなっていくのか。やって来たことや決断が無駄になりはしないか。皆さんはどうでしょうか。私はとても臆病ですし、いろいろなことを怖がっています。聖書からすると誉められたことではありません。むしろ、自分のために怖がっているだけで、自己中心的でしかない。ところが、目の前に立つ天使が言うのです。「恐れるな」と。改めて聖書を読んで気付くのは、羊飼いは、主の栄光があたりを照らしたことを恐れています。彼らは自分の将来や自分たちの身の安全を考えて恐れたのではなく、自分の成果やメンツのために怖がったのではありません。もっと根源的な恐れ、即ち神の御前に立つこと、いや、神がこちらに来られたことを恐れたのです。

 しかし天使は宣言します。「恐れるな。」なぜなら、「今日、ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」何度でも、この福音の宣言を味わいましょう。神さまの御前に出ることを、私たちはもはや恐れなくてよいのです。私のために救い主がお生まれになったからです。飼い葉桶に寝ている乳飲み子がそのしるしだと言います。不思議なしるしです。この乳飲み子は、平和のしるしです。当時の地中海世界は、皇帝を神の子と崇める「ローマの平和」で包まれていました。しかし飼い葉桶の乳飲み子はそれとは違う平和をもたらします。ご自分のへりくだりと愛によって打ち立てる平和を。この救い主にこそ、私たちが本当に平和に生きる道があるのです。

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