2022年12月4日「アドベントのこころ」

聖書:マタイによる福音書3:1~12
説教題:アドベントのこころ

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 今年の待降節(アドベント)は、教会の暦が指定する聖書の御言葉に耳を傾けます。今日は洗礼者ヨハネが登場した場面です。アドベントの箇所としては少し意外です。マリアもヨセフも登場しません。しかしヨハネのこの言葉は、アドベントのこころを私たちに伝えています。

 アドベントはクリスマス前の約一か月間を指します。日本語で「待降節」と呼びますから、イエスの降誕を待っている。横文字の「アドベント」は、もともとラテン語で「到来」という意味の言葉です。イエスの到来を待っている。間違ってはいけないのは、年中行事のクリスマスを待っているのではない、ということです。私たちは信仰をもってキリストの到来を待ち望んでいる。聖書は洗礼者ヨハネを「主の道を備えよ、その道をまっすぐにせよ」と叫ぶ声だと紹介します。主が到来するからその準備をせよ。ヨハネはそう叫んでいる。アドベントのこころ、それは主が来られるのを待つこころです。皆さんはどうやって主をお迎えする準備をしているでしょうか。

 洗礼者ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言いました。天の国は、主イエスが宣言した福音そのもの。つまり、主イエスが来られるということと一つです。ですからヨハネは、主イエスをお迎えする心は悔い改めだと言ったことになる。これは私たちが常識的に知っているクリスマスやアドベントのこころとはずいぶん違うのではないでしょうか。しかし他方ではこんなことも思います。ちょうど年の瀬も迫って、普段の自分を省みる機会もあるかもしれません。私たちには人間関係や自分のすべきことで失敗してしまうことも多い。自分の不用意な言葉で人を傷つけたり、自分の能力不足で悪い結果を招いてしまったり。他の人ならこのようなことにならなかったのに。あんな言葉をどうして口にしてしまったのか。夜も眠れないほど悩んでしまう。後悔する。もうしないようにしようと反省する。それが「悔い改め」ということなのでしょうか?

 今日はマタイによる福音書を開いています。もう少し読み進めると、主イエスの山上の説教が出てきます。「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と主は命じておられる。無理だと思います。主が命じておられても、従い得ない私。そうやって主イエスのお言葉を「罪リスト」にして自分の罪を見つけて後悔する。それがヨハネの言う「悔い改め」なのでしょうか。

 今日の洗礼者ヨハネの言葉はルカによる福音書にも伝えられていますが、強調点が少し違って伝えられています。ルカは悔い改めの内容を具体的に伝えている。不正をするなとか、他人の金をゆすり取るなとかです。ところがマタイは具体的な例示をしない。むしろマタイは、主をお迎えするという事柄自体が明らかにする私たちの罪の姿を強調しているのだと思います。私たちは生ける神の子であるイエスをお迎えすることのできない人間です。倫理的かどうかとかそれ以前の問題として、私たちは人間として神の子を迎えられる存在ではない。王様が自宅に来ると言ったら、ご遠慮するしかないのと同じです。クリスマスは驚くべき奇蹟です。神の前に顔を上げられない私のところに神の子が来てくださる。それに気づき、ひれ伏すことが「悔い改め」です。

 主イエスが来てくださったのだから。その事実を前にしたとき、私たちの人間関係も新しくなります。隣人と新しく出会い直すことができる。私たちの間には、私たちの所へ来てくださった方がおられるからです。

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