2022年11月20日「何が見えるのか」
聖書:詩編42:2〜4
マタイによる福音書20:29~34
説教題:何が見えるのか
説教者:増田保夫牧師(市川グレース教会)
音声
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
動画
今日のイエスの奇跡の現場は、エリコの町を出た道端である。このときエルサレムを目指すイエスには、多くの群衆が従っていた。この状況は、人々のイエスへの期待と人気が伺われる。イエスに従っていたと記されているが、それはイエスを神の子と信じ、信仰によっているのだろうか。この集団に群集心理が働いているということはないだろうか。イエスへの信仰は、個人的な係わりが大切である。わたしに留まりなさいと言われるイエスは、個人的なつながりを求めておられる。ここには、群衆からは見捨てられたような二人の盲人が道端に座っていた。それは闇の中にうずくまるようなものあるからこそ、光を見出したい思いにかられていたと推測される。彼らは、イエスが通られると聞いて、声を張り上げる。イエスの噂については、きっと耳に入っていたことだろう。彼らは、目に見えなくとも、聞くと言う最大限の能力をもって、聞き分けていたのではないか。この方にこそ、救いを期待できるのではないか。彼らの叫びが端的に物語る。イエスを神の子、救い主と信じ、憐れみを求めている。その言葉は、祈りの言葉と言える。
しかし、群集は、盲人たちを叱りつけ黙らせようとした。それは、イエスと係わりを持たせないようにしている行動だ。だが、二人の声はますます激しくなる。個人的な交わりを求める切実な叫びと言える。イエスは群衆の妨げから、二人の声を聞き分けられる。足を止め、二人を呼ぶ。イエスが二人を呼ばれるとは、二人を招いておられることを意味する。招きとは、二人を受け入れるためのものである。それは、二人の願いを二人の言葉で受け止めることである。目を開けていただきたい。彼らは、視力の回復を願う。イエスはこの願いを聞き深く憐れまれる。深く憐れむとは、はらわたをよじらせる程、相手の苦しみを理解し、自分の痛みとすることとも言える。イエスが人間に対して願っていることは、神の造られた素晴らしい自分を回復させでることである。この回復のための深い憐れみこそ、イエスの痛むものへの愛に他ならない。その愛は、思いに留まらず、行為も伴う。イエスはその目に触れられるのだ。愛は、個人の回復に用いられる。彼らの目はすぐに見えるようなる。その目には、何が見えたのだろうか。御言葉は、盲人の使う目という言葉に視力というような意味合いの言葉を用いている。ところがイエスが触れられた目には、別の言葉が使われ、心の目という意味合いがある。イエスの癒しとは、目が見えると言う単純な回復だけではない。心の目が開かれ、イエスの愛の眼差しを見極めるさせるものだ。彼らの目には、今、手を置いて癒してくださった、イエスの眼差しが映っていなかっただろうか。見えるようになるとは、彼らのようにイエスの愛の眼差しを見つめることができるようになることである。
ここから、イエスとの愛の交わりが継続される。愛が注がれ続けると人間はどのように変えられていくのだろうか。彼らは、イエスに従ったと短く記されている。この従う姿勢は、群衆の姿勢とは大きく異なる。イエスを神の子、救い主と信じ、イエスの愛を実感し、愛に養われ、愛を映し出す信仰を歩んでいるものの喜びの姿である。変えられるとは、イエスの愛に憧れる者が、その愛によりイエスのように生かされること。そのためにイエスはわたしたちの目にも触れてくださる。イエスの愛の注ぎをはっきりと見て受け続けるためにも、主よ憐れんでくださいと願える者でありたい。
今週も、イエスに従う中で、豊かな愛の恵みを味わって歩んで行こう。
マタイによる福音書20:29~34
説教題:何が見えるのか
説教者:増田保夫牧師(市川グレース教会)
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今日のイエスの奇跡の現場は、エリコの町を出た道端である。このときエルサレムを目指すイエスには、多くの群衆が従っていた。この状況は、人々のイエスへの期待と人気が伺われる。イエスに従っていたと記されているが、それはイエスを神の子と信じ、信仰によっているのだろうか。この集団に群集心理が働いているということはないだろうか。イエスへの信仰は、個人的な係わりが大切である。わたしに留まりなさいと言われるイエスは、個人的なつながりを求めておられる。ここには、群衆からは見捨てられたような二人の盲人が道端に座っていた。それは闇の中にうずくまるようなものあるからこそ、光を見出したい思いにかられていたと推測される。彼らは、イエスが通られると聞いて、声を張り上げる。イエスの噂については、きっと耳に入っていたことだろう。彼らは、目に見えなくとも、聞くと言う最大限の能力をもって、聞き分けていたのではないか。この方にこそ、救いを期待できるのではないか。彼らの叫びが端的に物語る。イエスを神の子、救い主と信じ、憐れみを求めている。その言葉は、祈りの言葉と言える。
しかし、群集は、盲人たちを叱りつけ黙らせようとした。それは、イエスと係わりを持たせないようにしている行動だ。だが、二人の声はますます激しくなる。個人的な交わりを求める切実な叫びと言える。イエスは群衆の妨げから、二人の声を聞き分けられる。足を止め、二人を呼ぶ。イエスが二人を呼ばれるとは、二人を招いておられることを意味する。招きとは、二人を受け入れるためのものである。それは、二人の願いを二人の言葉で受け止めることである。目を開けていただきたい。彼らは、視力の回復を願う。イエスはこの願いを聞き深く憐れまれる。深く憐れむとは、はらわたをよじらせる程、相手の苦しみを理解し、自分の痛みとすることとも言える。イエスが人間に対して願っていることは、神の造られた素晴らしい自分を回復させでることである。この回復のための深い憐れみこそ、イエスの痛むものへの愛に他ならない。その愛は、思いに留まらず、行為も伴う。イエスはその目に触れられるのだ。愛は、個人の回復に用いられる。彼らの目はすぐに見えるようなる。その目には、何が見えたのだろうか。御言葉は、盲人の使う目という言葉に視力というような意味合いの言葉を用いている。ところがイエスが触れられた目には、別の言葉が使われ、心の目という意味合いがある。イエスの癒しとは、目が見えると言う単純な回復だけではない。心の目が開かれ、イエスの愛の眼差しを見極めるさせるものだ。彼らの目には、今、手を置いて癒してくださった、イエスの眼差しが映っていなかっただろうか。見えるようになるとは、彼らのようにイエスの愛の眼差しを見つめることができるようになることである。
ここから、イエスとの愛の交わりが継続される。愛が注がれ続けると人間はどのように変えられていくのだろうか。彼らは、イエスに従ったと短く記されている。この従う姿勢は、群衆の姿勢とは大きく異なる。イエスを神の子、救い主と信じ、イエスの愛を実感し、愛に養われ、愛を映し出す信仰を歩んでいるものの喜びの姿である。変えられるとは、イエスの愛に憧れる者が、その愛によりイエスのように生かされること。そのためにイエスはわたしたちの目にも触れてくださる。イエスの愛の注ぎをはっきりと見て受け続けるためにも、主よ憐れんでくださいと願える者でありたい。
今週も、イエスに従う中で、豊かな愛の恵みを味わって歩んで行こう。
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