2022年11月13日「救い主は波濤を越えて」

さがみ野教会では11月13日に成長感謝礼拝を献げました。この日は説教や讃美歌などをすべて子ども向けとし、大人も子どももいっしょに礼拝を献げました。

聖書:マタイによる福音書14:22~33

その時の説教の音声はこちらです。
説教題:安心して!イエスさまがいるから




また、下の音声と動画は当日の礼拝の様子ではなく、礼拝で朗読した聖書の御言葉から、大人向けに語り直した説教を録画したものです。礼拝の前日に撮影しました。
説教題:救い主は波濤を越えて






 先日機会があって、松坂秀雄さんという臨床心理士の先生の講演を聴きました。俳優の松坂桃李さんのお父様だそうです。子育てに関するお話だったのですが、子どもが自分らしく生きるために親はどう関わったら良いのかというときに、この先生のご専門から「メンタライジング」という能力に光を当ててお話しくださいました。メンタライジングとは、親が自分自身の心にも注意を向けながら、子どももまた心をもった存在として、その意図や気持ちや望みを思い描く力だそうです。私の言葉で言い換えれば、思いやりや想像力ということだと思います。親が子どもの心に思いやりを発揮して、何を感じどう思っているかを想像し、子ども自身がそれに気づけるように援助する。それが損なわれると、大きな傷になってしまう。そのようなお話しでした。

 それを聞いて、現代の社会を生きる私たちは、心と心が思いやりや想像力を持ってつながるという点において、大変な危機にあるのだということも強く思わされました。この先生がおっしゃっていたことは言うなれば「当たり前」の話です。しかしそれがなかなかできない。そこには親自身の楽しみや気持ちを優先してしまう自分勝手さがあるのでしょうし、あるいは親子以外の関係でも同じ危機があるのではないかと思います。新型コロナウイルスがパンデミックを引き起こしてしばらくして、ローマ・カトリック教会の教皇フランシスコが、ウイルスのパンデミックは無関心というもう一つのパンデミックが広がっていることを明らかにしたといいう主旨のことを言っていました。本当にそうだと思います。心と心のソーシャル・ディスタンスが、もう修復不可能なほどに広くなってしまっている。広げているのは、死の恐怖です。ウイルスだけではありません。自分だけにしか関心がなかったり、他人の苦しみに無関心でいたりするのは、私たちの間に死の力が大手をふるっているからではないでしょうか。

 スイスに生きた牧師、ルードルフ・ボーレン先生がこのような祈りを残しています。「死はテレビでは自慢げに、新聞では威張っている。その現れるところで、偉そうに振る舞っている。だが死はそう振る舞っているに過ぎない。彼がその筋を動かしても、残っているのは骸骨だけ。しかし、あなたです、彼から筋を取り去り、骸骨の形にされたのは。私を、またキリストの信徒たちを赦してください、我らがいつもいつも偉そうに振る舞う者の為すがままに任せるのを。私を赦してください、彼の偉そうな振る舞いにあなたの福音に代わる信を置く私を。」

 キリストは湖の上を歩いて、弟子たちの乗る舟に近づいてこられました。湖や海は、聖書ではしばしば死の力の象徴として登場します。逆風の中、弟子たちの乗る舟は死の力にのみ込まれそうでした。しかし、キリストが来てくださいます。「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」キリストはそう宣言なさるのです。この方は死の力に打ち勝って、今も私たちのところへ来てくださいます。ペトロはキリストに命じて頂いて、湖の上を歩きました。ところがキリストではなく風に注意が向いたときに沈み込んでしまった。これが私たちの現実です。そんなペトロをキリストが手を伸ばして救ってくださる。私たちは死の逆風が吹き荒れる世界に生きています。キリストを見つめましょう。キリストのいのちの祝福の中、もう一度他者と出会いましょう。

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