2022年11月6日「あなたは、あなた」
聖書:ヨハネによる福音書21:15~25
説教題:あなたは、あなた
動画
音声
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
主イエス・キリストとシモン・ペトロ。二人の対話です。ここには他にも六人の弟子たちがいましたが、主イエスはただペトロだけをめがけて、個別の対話をしておられます。まるで、二人っきりであるかのようにして。
主イエスは尋ねます。「ヨハネの子シモン、この人たち以上に私を愛しているか。」三度重ねて、主イエスはペトロの愛を問いました。あの夜、ペトロが三度重ねてイエスの弟子であることを否定し、イエスへの愛を拒んだことをなぞるようにして、彼の愛を問うたのです。シモン・ペトロも、同じように三度答えます。「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」すると、それに対して主イエスはやはり三度彼に命じました。「私の羊を飼いなさい」と。主イエス・キリストは、シモン・ペトロに新しい使命をお与えになりました。彼は決して立派な人ではありません。数日前にイエスを裏切って、見捨てたばかりです。彼はイエスさまに一番叱られた弟子です。弱くて、臆病で、調子のいいことを言っては失敗し、人目を気にし、周りに合わせて大切なことを曲げてしまいます。不完全な人間です。しかしそんなシモン・ペトロを、主イエスは新しい使命へと呼び出したのです。「わたしの羊の世話をしなさい。」
もしも主イエスが「もういいよ、誰でも失敗するからね」とか、その逆に「反省が足りない」と言っていたのだとしたら、どうでしょうか。後者であれば、シモンには救いがありません。イエスを見殺しにした罪を一体どうしたら償えるのか。もうどうすることもできません。絶望するより他ない。あるいは前者だったとしても、結局は気休めに過ぎないのではないでしょうか。何も解決していないのですから。ところが主イエスは、そのどちらでもなく、彼を新しい使命へと呼び出しました。「私の羊を飼いなさい。」そうして、シモンへの赦しが完成したのです。
「私の羊の世話をしなさい。」それは安心して休める寝床を整えることであり、青草の原に連れて行くことであり、狼から守ることです。つまり、日常的なことです。主イエスは歴史に残る大事業をしろとか、誰にも認められる立派な成果を残せとは言いませんでした。彼が世話する主イエスの羊は、弱くて臆病で、調子のいいことを言って失敗し、人目を気にし、周りに合わせて大切なことを曲げてしまう羊。つまり、ペトロ自身と同じ罪人のことです。しかし、その羊は主イエス・キリストの羊です。キリストが命を懸けて救った羊を世話するようにと、主は彼に命じたのです。
主イエスは彼を羊の世話をする使命へと呼び出しました。「呼ぶ」はドイツ語ではベルーフェンと言います。名詞形にするとベルーフ。辞書を引くと「職業」という意味です。「呼ぶ」を名詞にすると「職業」になる。つまり、私たちの就く職業(有償でも無償でも)は、主イエスに呼ばれて就いている働きです。私たちは主イエスに呼ばれた働きの中で、キリストの羊の世話をします。そこで出会う人をキリストに代わって世話をするのです。
ペトロは主イエスに呼ばれたとき、隣にいた仲間の弟子が気になりました。ところがイエスは、お前とは無関係だと厳しくおっしゃいます。私だけを見よ、と。私たちは私たちを限りない愛をもって赦し、愛してくださるキリストの呼び声に応えて、主に従って生きていきます。
説教題:あなたは、あなた
動画
音声
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
主イエス・キリストとシモン・ペトロ。二人の対話です。ここには他にも六人の弟子たちがいましたが、主イエスはただペトロだけをめがけて、個別の対話をしておられます。まるで、二人っきりであるかのようにして。
主イエスは尋ねます。「ヨハネの子シモン、この人たち以上に私を愛しているか。」三度重ねて、主イエスはペトロの愛を問いました。あの夜、ペトロが三度重ねてイエスの弟子であることを否定し、イエスへの愛を拒んだことをなぞるようにして、彼の愛を問うたのです。シモン・ペトロも、同じように三度答えます。「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」すると、それに対して主イエスはやはり三度彼に命じました。「私の羊を飼いなさい」と。主イエス・キリストは、シモン・ペトロに新しい使命をお与えになりました。彼は決して立派な人ではありません。数日前にイエスを裏切って、見捨てたばかりです。彼はイエスさまに一番叱られた弟子です。弱くて、臆病で、調子のいいことを言っては失敗し、人目を気にし、周りに合わせて大切なことを曲げてしまいます。不完全な人間です。しかしそんなシモン・ペトロを、主イエスは新しい使命へと呼び出したのです。「わたしの羊の世話をしなさい。」
もしも主イエスが「もういいよ、誰でも失敗するからね」とか、その逆に「反省が足りない」と言っていたのだとしたら、どうでしょうか。後者であれば、シモンには救いがありません。イエスを見殺しにした罪を一体どうしたら償えるのか。もうどうすることもできません。絶望するより他ない。あるいは前者だったとしても、結局は気休めに過ぎないのではないでしょうか。何も解決していないのですから。ところが主イエスは、そのどちらでもなく、彼を新しい使命へと呼び出しました。「私の羊を飼いなさい。」そうして、シモンへの赦しが完成したのです。
「私の羊の世話をしなさい。」それは安心して休める寝床を整えることであり、青草の原に連れて行くことであり、狼から守ることです。つまり、日常的なことです。主イエスは歴史に残る大事業をしろとか、誰にも認められる立派な成果を残せとは言いませんでした。彼が世話する主イエスの羊は、弱くて臆病で、調子のいいことを言って失敗し、人目を気にし、周りに合わせて大切なことを曲げてしまう羊。つまり、ペトロ自身と同じ罪人のことです。しかし、その羊は主イエス・キリストの羊です。キリストが命を懸けて救った羊を世話するようにと、主は彼に命じたのです。
主イエスは彼を羊の世話をする使命へと呼び出しました。「呼ぶ」はドイツ語ではベルーフェンと言います。名詞形にするとベルーフ。辞書を引くと「職業」という意味です。「呼ぶ」を名詞にすると「職業」になる。つまり、私たちの就く職業(有償でも無償でも)は、主イエスに呼ばれて就いている働きです。私たちは主イエスに呼ばれた働きの中で、キリストの羊の世話をします。そこで出会う人をキリストに代わって世話をするのです。
ペトロは主イエスに呼ばれたとき、隣にいた仲間の弟子が気になりました。ところがイエスは、お前とは無関係だと厳しくおっしゃいます。私だけを見よ、と。私たちは私たちを限りない愛をもって赦し、愛してくださるキリストの呼び声に応えて、主に従って生きていきます。
この記事へのコメント