2022年10月23日「夜明け」
聖書:ヨハネによる福音書21:1~14
説教題:夜明け
音声
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動画
ティベリアス湖。私たちにとってはむしろガリラヤ湖という名前の方がなじみ深いこの湖は、シモン・ペトロや他の多くの弟子にとって、主イエスとの出会いの場でした。ここでいろいろなことがありました。主イエスが五つのパンと二匹の魚で5000人もの大群衆を満腹させたのは、この湖のほとりでの出来事です。或いは弟子たちが舟に乗って湖を渡ろうとしたとき、逆風に悩まされているところへ水の上を歩いて主イエスがやってこられた。それもこの湖での出来事でした。
そして何よりも、この湖はペトロたちにとって、主イエスとの最初の出会いの場所でした。ペトロたちはもともとティベリアス湖で生計を立てる漁師でした。ある日、シモンらは一晩中網を降ろして漁をしましたが、たったの一匹の魚も捕れませんでした。そこにイエスがやって来た。イエスは彼らにおっしゃいます。「沖へ漕ぎ出し、網を降ろして漁をしなさい。」シモンは答えます。「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も獲れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」すると、舟が沈みそうになるほどのたくさんの魚がかかります。主イエスはペトロにおっしゃいました。「今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」こうして、彼らは主イエスの弟子になった。
そのティベリアス湖に、彼らは今戻ってきた。それがなぜなのかをヨハネは記していません。想像するしかない。私が思うに、彼らは自分たちの道を見失いかけていたのではないでしょうか。主イエスが十字架にかけられ、しかし復活しペトロ自身も主イエスと再び出会いました。しかしその火も落ち着き、どうして良いのか分からなくなったのではないかと思います。それで彼は故郷ティベリアス湖に行き、昔のように夜湖に出て網を降ろしたのです。……ところが、何度網を降ろしてみても、一匹の魚もかかりません。やってもやっても無駄。全部徒労です。これは、本当に疲れる。もしかしたら、プロの漁師であったシモンよりも、いっしょに漁に出てきた素人のトマスやナタナエルの方がかえって辛い気持ちになったかもしれません。彼らにとっては次第に昇りゆく朝日も慰めにならず、自分たちの疲れを映し出すだけだったのではないかと思います。
彼らは舟に乗って漁をしていました。古来、舟は教会の象徴、シンボルマークになっています。私たち教会は、「あなたは人間をとる漁師になる」と言われた主イエスの言葉に従って網を降ろしてきました。しかしどんなに働いても成果が出ず、懸命に励んでも徒労に終わることもあります。本当に空しくなってしまう。ところが、そんなペトロたちに岸辺から響く声があるのです。「子たちよ、何かおかずになる物は捕れたか。」ペトロは「捕れません」と答える。するとさらに声が響きます。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはずだ。」言われた通りにすると、網を引き上げられないほどたくさんの魚がかかっています。彼は知っていました、この網の重みを。この腕に感じる魚の躍動を知っていたのです。隣で「主だ」と叫ぶ声を聞き、ペトロは上着をまとって湖に飛び込みます。主イエスが大好きだったから、敬愛する師だから、裸で向かうわけには行かなかった。岸辺で主イエスは火をおこし、既に魚とパンを焼いておられました。疲れ果てたペトロを主イエスが養ってくださった。キリストの復活という夜明けがペトロにも訪れたのです。
説教題:夜明け
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ティベリアス湖。私たちにとってはむしろガリラヤ湖という名前の方がなじみ深いこの湖は、シモン・ペトロや他の多くの弟子にとって、主イエスとの出会いの場でした。ここでいろいろなことがありました。主イエスが五つのパンと二匹の魚で5000人もの大群衆を満腹させたのは、この湖のほとりでの出来事です。或いは弟子たちが舟に乗って湖を渡ろうとしたとき、逆風に悩まされているところへ水の上を歩いて主イエスがやってこられた。それもこの湖での出来事でした。
そして何よりも、この湖はペトロたちにとって、主イエスとの最初の出会いの場所でした。ペトロたちはもともとティベリアス湖で生計を立てる漁師でした。ある日、シモンらは一晩中網を降ろして漁をしましたが、たったの一匹の魚も捕れませんでした。そこにイエスがやって来た。イエスは彼らにおっしゃいます。「沖へ漕ぎ出し、網を降ろして漁をしなさい。」シモンは答えます。「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も獲れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」すると、舟が沈みそうになるほどのたくさんの魚がかかります。主イエスはペトロにおっしゃいました。「今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」こうして、彼らは主イエスの弟子になった。
そのティベリアス湖に、彼らは今戻ってきた。それがなぜなのかをヨハネは記していません。想像するしかない。私が思うに、彼らは自分たちの道を見失いかけていたのではないでしょうか。主イエスが十字架にかけられ、しかし復活しペトロ自身も主イエスと再び出会いました。しかしその火も落ち着き、どうして良いのか分からなくなったのではないかと思います。それで彼は故郷ティベリアス湖に行き、昔のように夜湖に出て網を降ろしたのです。……ところが、何度網を降ろしてみても、一匹の魚もかかりません。やってもやっても無駄。全部徒労です。これは、本当に疲れる。もしかしたら、プロの漁師であったシモンよりも、いっしょに漁に出てきた素人のトマスやナタナエルの方がかえって辛い気持ちになったかもしれません。彼らにとっては次第に昇りゆく朝日も慰めにならず、自分たちの疲れを映し出すだけだったのではないかと思います。
彼らは舟に乗って漁をしていました。古来、舟は教会の象徴、シンボルマークになっています。私たち教会は、「あなたは人間をとる漁師になる」と言われた主イエスの言葉に従って網を降ろしてきました。しかしどんなに働いても成果が出ず、懸命に励んでも徒労に終わることもあります。本当に空しくなってしまう。ところが、そんなペトロたちに岸辺から響く声があるのです。「子たちよ、何かおかずになる物は捕れたか。」ペトロは「捕れません」と答える。するとさらに声が響きます。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはずだ。」言われた通りにすると、網を引き上げられないほどたくさんの魚がかかっています。彼は知っていました、この網の重みを。この腕に感じる魚の躍動を知っていたのです。隣で「主だ」と叫ぶ声を聞き、ペトロは上着をまとって湖に飛び込みます。主イエスが大好きだったから、敬愛する師だから、裸で向かうわけには行かなかった。岸辺で主イエスは火をおこし、既に魚とパンを焼いておられました。疲れ果てたペトロを主イエスが養ってくださった。キリストの復活という夜明けがペトロにも訪れたのです。
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