2022年9月18日「イエスは子どもの手を取って」

今日は召天者記念礼拝でした。
聖書朗読と説教の間で召天者名簿を朗読しましたが、プライバシーの関係上、動画では割愛しています。

聖書:マルコによる福音書5:21~43
説教題:イエスは子どもの手を取って

音声


動画



今日は召天者記念礼拝。さがみ野教会にとって、とても大切な礼拝です。礼拝では召天者名簿を朗読しました。それぞれに、知っている名も知らない名もあるでしょう。或いはそこに書かれていないけれど、自分の心にかかる御名前もそれぞれにある。その一人ひとりが神に愛されて生きた人の名前です。聖書の中に、神さまを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼んでいるところがあります。アブラハムの子がイサク、その子がヤコブ。彼らは皆イスラエルの人々の祖先です。ずっと昔の祖先の神が私の神にもなってくださった。父祖が出会った神と私も出会い、わたしも神を信じている。そういう信仰が込められた呼び方です。この神が私たちの神です。今、私たちの心にかかる名前によって、○○の神と呼ぶことも許されている。信仰は私たち個人の、今だけの営みではない。私の父や母、息子や娘、教会の先輩たちやまだ見ぬ子どもたちの神。この神が私の神でもある。

今日、聖書が伝えているのは会堂長ヤイロとその娘、そして長い年月病気に苦しんできた一人の女の話です。ヤイロは幼い娘が病気で死にそうになっていました。主イエスに助けを求めてやって来た。女は長いこと病気に苦しみ、たくさんの医者にかかったが治らず、全財産を使い果たしてしまいました。やはり彼女もイエス様のところに助けを求めてやって来ました。二人とも必死です。我を忘れて、イエスに救いを求めて手を伸ばしている。その気持ちは私たちと同じです。自分の子どものために必死に救いを求める父の思い。どうしたって治らない病気のために散々苦しめられ、最後の一縷の望みを託してイエス様のところに来た女の思い。助けてください、救ってくださいと、私たちも同じように祈ってきたのではないでしょうか。

主イエスはそういう祈りや呻きにどう応えてくださるのか。とても長いので細かく見ることはできませんが、急所は「出会い」です。例えば12年間病気で苦しんだ女。彼女は、イエス様の服の裾にでも触れれば癒して頂けるのではないかと期待して、後ろから近づいて触った。すると、本当に病気が癒された。しかし、それで話は終わりませんでした。イエス様は突然立ち止まって、自分に触れたのは誰かと探し始めます。この時、たくさんの人々がイエス様に押し寄せていました。たくさんの手が伸びていた。みんながイエス様に触っていたのです。ところが、イエス様はたった一人の人を捜して、立ち止まったのです。それは、彼女がただ病気がよくなってよかったね、という事ではなく、彼女にとっての本当の救いは主イエスと出会うことだからです。彼女が面と向かって主イエスと出会うことができるように、主イエスは立ち止まって振り向いたのです。

それはヤイロの娘も同じです。主イエスはヤイロの家に着いた時、既に死んでいた子どもの手を取って「タリタ・クム」とおっしゃいました。「少女よ、さあ、起きなさい」という意味です。わざわざ手を取ったのは、やはり、この少女と出会い、ヤイロとしっかり出会うためです。キリストと出会うことは、私たちの願い以上の救いなのです。女も少女も、この先また病気になるかもしれないし、間違いなくやがて死にます。しかしキリストとの出会いは死の床でも変わらないのです。キリストは「さあ、起きなさい」と私たちの手を取るために、私たちのところへ来てくださったのです。

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