2022年9月11日「疑い深い人は来てください」

聖書:ヨハネによる福音書20:24~29
説教題:疑い深い人は来てください

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ディディモと呼ばれるトマス。そのように紹介されている12人の弟子の一人が今日登場しています。ディディモというのは「双子」という意味です。双子というとそのもう一人の片割れはどこにいるのかが気になります。しかし聖書には登場しません。やはり、トマスと似ていたのでしょうか?

トマスと言えば、「疑い深いトマス」などと呼ばれることもあります。まさに今日の箇所がその理由で、彼は最後までイエスの復活のニュースを信じようとはしませんでした。信じようとしない、疑い深い弟子、トマス。そういうふうに言うとなんとも罪深い人のように感じますが、別の言い方もできるかなと思います。例えば第14章にもトマスは登場する。十字架の前の晩、最後の晩餐の席でイエスが弟子たちに「私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言いました。明らかに十字架の道のことを言っています。弟子たちにはそのことがはっきりと明示されていたわけではありませんでしたが、ただならぬ緊張を感じとっていたに違いない。しかしトマスは言うのです。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道が分かるでしょう。」トマスは分かったふりをしない。分からない事があればうやむやにせず、空気を読まずに分からないと言う人だったのだと思います。疑いと言えばとても罪深いようにも思えますが、とことん追求する質だと言えば、必ずしも悪いところだとは思えなくなります。この時も、仲間の弟子たちは皆で「私たちは主を見た」と言って喜んでいましたが、その場にいなかったトマスは、みんなが言っているからという理由で無理に納得しませんでした。

トマスは皆の輪から外れて、孤独だったと思います。その上、愛し、信じてきたイエスが十字架にかけられ、しかも復活などと皆が言っていることにも躓き、辛かったと思います。そう、キリストの復活こそが聖書の伝える信仰の急所であり、同時に私たちにとっての最大の躓きなのです。現代人は思います。科学も未発達の古代人ならいざ知らず、21世紀の今、死人の復活など信じるに価しない、と。しかし2000年前に既にトマスが言っているのです。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘あとに入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない」と。これは一方では正しい態度です。トマスは「みんなが言っているから、みんなが信じているから」という理由で無理に信じ込もうとはしません。でも他方で、全部実証されたら信じるというのは、本当に「信じる」ということなのでしょうか…?

そんなトマスを教会の仲間は、そして主イエスは一体どうしたのか?弟子たちは八日後にまた同じ家にいて、そこにはトマスも一緒にいました。トマスはこの一週間悩み抜いたに違いない。しかし教会は彼を包摂しました。そして再び戸に鍵をかけ、あの日と同じ状況を作ります。するとそこにイエスが入ってきて真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言った。恐らく今度はトマス一人のために。そして手とわき腹をトマスに見せた。これは主イエスのへりくだりです。主イエスと教会は疑い深い彼を捨てずに抱きかかえた。信じるとは主に抱きかかえて頂くことです。もはや自分の手や目よりもイエスを信じる。そのトマスが「私の主、私の神よ」とイエスに告白したのです。

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