2022年8月28日「思い起こせ、キリストの涙を」

聖書:エレミヤ書11:1~14
説教題:思い起こせ、キリストの涙を

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預言者エレミヤの言葉を聞いています。この人は、神さまは私たちをどのようにご覧になっているのかということを本当に真剣に、そして深く問うた人です。神さまは私たち人間をどのようにご覧になっているのでしょうか。聖書は一貫してそのことを問うていると言っても良いかもしれません。例えば、主イエスのなさった譬え話です。100匹の羊を持つ羊飼いが群れの一匹がいなくなっていたことに気付いたら、99匹を野に残して失われた一匹を探す。その時の羊飼いの思いは、どのようなものだったのでしょう。10枚の銀貨を持っていた女、1枚が失われてしまったら家中の家具を動かして失われた1枚を捜す。その時の女の心は?あるいは失われた息子の父親。弟息子がお金だけを持って家を飛び出した時、家に残された父の心は?帰ってきた弟を喜んで迎えた父を許せずに外で怒っていた兄を迎えに出た父の心は?私たちに対する神さまの御心はそういうところに現れているのではないでしょうか。

エレミヤは神さまと私たちとの関係の出発点、あるいは基は「契約」にあると言います。「この契約の言葉を聞け」と主がエレミヤに語りかけました。その契約とは、神が民をエジプトから導き出した時に結んだものです。「私の声に聞き従い、私があなたがたに命じることをすべて行えば、あなたがたは私の民となり、私はあなたがたの神となる。」これは神が先祖にかつて約束した乳と蜜の流れる地を与えるためのものだ、と言います。

この「契約」は、ある契約条項や戒律をクリアしたご褒美として神さまが土地という報酬をくれる、という話ではありません。「あなたがたは私の民となり、私はあなたがたの神となる」ために神がどんなに懸命に働いてくださったのか、というメッセージです。先ほどの羊飼いと女と父親の譬えは、主イエスが徴税人と食事をしているのにファリサイ派が不満を述べた時に語られました。徴税人はほとんど極悪人のような人たちで、ファリサイ派は本当に熱心で忠実な人たちでした。しかし主イエスはファリサイ派を批判し、徴税人と食卓を囲みました。ファリサイ派は自分たちの行いの正しさを誇り、他人を罪に定めていました。しかし主は罪人のところへ行って罪の赦しを告げたのです。契約条項に忠実なことと、神さまがお喜びになる生き方とは、必ずしもイコールではない。神さまは私たちの真心からの愛を求めておられるし、くずおれるようにして悔い改める者を見捨てないのです。

今日のエレミヤ書の御言葉には「聞く」という言葉が何度も出てきます。神さまは私たちが神さま言葉を真摯に聞き、愛をもって従うことをお喜びになる。しかし現実のイスラエルや私たちは、聞くことを拒み、従うことを拒んできた。だから、11から14節で告げられる神の裁きは、神が私たちの祈りをもはや聞かないと告げられている。神さまが私たちとまことに人格的な関わりを結ぼうとしておられるからこそ、そのように告げられているのです。だから、私たちは自分自身の事として、神の裁きを真剣に受けとめなければならないのではないでしょうか。苦しみの中にあっても、神さまは今私に何と語りかけておられるのか、と。主イエスは悔い改めを拒む人々を見詰めて涙を流しました(ルカ19:41)。今、誠実に悔い改め、神さまの御もとに帰っていきましょう。

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