2022年7月31日「命の神は救いの神」
聖書:エレミヤ書10:1~16
説教題:命の神は救いの神
音声
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動画
7月は本当にいろいろなことがありました。7月8日に安倍晋三さんが殺害されました。どのような理由であれ、一人の人間があのようなかたちで殺されるというのは悲しいことです。社会学者でありキリスト者である宮台真司さんが朝日新聞にこのような文章を寄せていました。「容疑者のような寄る辺なき個人を一人でも多く社会に包摂し、感情的な凶行を起こしたり、過激な主張の政治・宗教団体に吸い寄せられたりしないで済む暮らしを送るように、互いに声を掛け合う人間関係を身の回りで築く実践を粘り強く続けないと、事件はまた起こりうる。」寄る辺なき個人を包摂するという考え方は、ずっと日本社会に積み上げられてきた自己責任論とは正反対です。
カトリック教会の森一弘司教が『人が壊されていく』という本を著しておられます。このように書いておられます。「若い人たちが起こす不幸で悲しい事件を通してわたしに伝わってくるものは、現代日本社会の複雑なシステムの重圧の中で、人間として生き抜くことの難しさにもがき、のたうち回っている人々の悲鳴とうめきである。」そして、森司教は日本社会の問題として、経済の豊かさを最優先した価値観や地域・家族共同体の衰退、競争の倫理などを指摘しておられます。
お二人とも、事件を起こした人に責任はない、などと言っているのではありません。寄る辺なき個人を包摂できない社会の病を見据え、社会の責任をも問いながら、これから私たちはどうしたらいいのかを真剣に考えておられます。
預言者エレミヤが見詰めていたのも同じ悲しみだったのではないかと私は思います。皆が銀や金で作った偶像を拝んでいました。きれいで豪華なものに心を惹かれてひれ伏している姿は、現代社会の姿そのものです。しかもそれは「諸国民の道(2節)」と呼ばれている通り、みんながしていること、社会の当たり前の価値観だったのです。ある人は、現代の偶像礼拝は軍国主義や国家主義、消費主義、自然主義、技術主義といった顔をしていると指摘しています。それらは銀や金で覆われていて、私たちの繁栄に資すると思われている。しかし、私たちを圧迫します。エレミヤは、それらは人間の手によって、木で造られたものにすぎないと指摘します。現代の社会システムも人間がつくりました。しかしあまりに強固で、もうどうしようもないように見えます。実際のところお金がなければどうにもならないし、社会システムから一度外れると簡単には戻れない。このシステムは絶対だと思わせる力を持っています。
しかし聖書は言います。「主よ、あなたのような方はいません。あなたは大いなる方。あなたの名は偉大で、力に満ちています。(6節)」主なる神さまこそが力に満ちていると言います。聖書は偶像と主なる神さまとを鮮やかに対比しています。偶像は人間が造ったものであり、動くことも話すこともできない。ところが主なる神さまはご自分の力で地を造り、世界を固く据え、天を広げました。あなたはこの神を拝むのか、それとも偶像を拝むのか、と聖書は私たちに決断を迫ります。金も銀も神のような顔をしていても空しいものです。しかし「主は真実の神、命の神、永遠の王」。私たちに命を与えた方は私たちを救うこともおできになる。すべての人を招く救いの神がおられるのです。
説教題:命の神は救いの神
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7月は本当にいろいろなことがありました。7月8日に安倍晋三さんが殺害されました。どのような理由であれ、一人の人間があのようなかたちで殺されるというのは悲しいことです。社会学者でありキリスト者である宮台真司さんが朝日新聞にこのような文章を寄せていました。「容疑者のような寄る辺なき個人を一人でも多く社会に包摂し、感情的な凶行を起こしたり、過激な主張の政治・宗教団体に吸い寄せられたりしないで済む暮らしを送るように、互いに声を掛け合う人間関係を身の回りで築く実践を粘り強く続けないと、事件はまた起こりうる。」寄る辺なき個人を包摂するという考え方は、ずっと日本社会に積み上げられてきた自己責任論とは正反対です。
カトリック教会の森一弘司教が『人が壊されていく』という本を著しておられます。このように書いておられます。「若い人たちが起こす不幸で悲しい事件を通してわたしに伝わってくるものは、現代日本社会の複雑なシステムの重圧の中で、人間として生き抜くことの難しさにもがき、のたうち回っている人々の悲鳴とうめきである。」そして、森司教は日本社会の問題として、経済の豊かさを最優先した価値観や地域・家族共同体の衰退、競争の倫理などを指摘しておられます。
お二人とも、事件を起こした人に責任はない、などと言っているのではありません。寄る辺なき個人を包摂できない社会の病を見据え、社会の責任をも問いながら、これから私たちはどうしたらいいのかを真剣に考えておられます。
預言者エレミヤが見詰めていたのも同じ悲しみだったのではないかと私は思います。皆が銀や金で作った偶像を拝んでいました。きれいで豪華なものに心を惹かれてひれ伏している姿は、現代社会の姿そのものです。しかもそれは「諸国民の道(2節)」と呼ばれている通り、みんながしていること、社会の当たり前の価値観だったのです。ある人は、現代の偶像礼拝は軍国主義や国家主義、消費主義、自然主義、技術主義といった顔をしていると指摘しています。それらは銀や金で覆われていて、私たちの繁栄に資すると思われている。しかし、私たちを圧迫します。エレミヤは、それらは人間の手によって、木で造られたものにすぎないと指摘します。現代の社会システムも人間がつくりました。しかしあまりに強固で、もうどうしようもないように見えます。実際のところお金がなければどうにもならないし、社会システムから一度外れると簡単には戻れない。このシステムは絶対だと思わせる力を持っています。
しかし聖書は言います。「主よ、あなたのような方はいません。あなたは大いなる方。あなたの名は偉大で、力に満ちています。(6節)」主なる神さまこそが力に満ちていると言います。聖書は偶像と主なる神さまとを鮮やかに対比しています。偶像は人間が造ったものであり、動くことも話すこともできない。ところが主なる神さまはご自分の力で地を造り、世界を固く据え、天を広げました。あなたはこの神を拝むのか、それとも偶像を拝むのか、と聖書は私たちに決断を迫ります。金も銀も神のような顔をしていても空しいものです。しかし「主は真実の神、命の神、永遠の王」。私たちに命を与えた方は私たちを救うこともおできになる。すべての人を招く救いの神がおられるのです。
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