2022年7月24日「信じること、理解すること」

聖書:ヨハネによる福音書20:1~10
説教題:信じること、理解すること

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私たちキリスト教会は日曜日を「主の日」と呼んで大切にしています。この日、私たちは神を礼拝します。コロナ禍になってから日曜日の説教の動画配信も始め、曜日にこだわらずにいつでも見られるようになりました。一方ではこのために広がった間口が大変有り難いことですが、他方ではできる限り日曜日にご覧頂きたいという思いもあります。マグダラのマリア、シモン・ペトロ、イエスの愛しておられた弟子。三人が登場しています。彼らが空になった墓を見、復活したイエスと出会ったのは週の初めの日、すなわち日曜日のことでした。私たちが日曜日にキリストを礼拝するのは、この出来事を記念してのことです。今生きておられるキリストが私たちにも出会ってくださっていることを信じて、私たちは神を礼拝しています。

しかしその最初の朝、マリアを初めとした三人には喜びも希望もありませんでした。1節から10節の言葉使いにもそのことはよくあらわれています。ここには「見る」という言葉と「墓」という言葉が多用されています。墓に行ったマリアは、墓から石が取りのけられているのを見ました。彼女は怖くなった。墓荒らしではないか。「誰かが主を墓から取り去りました」と、ペトロたちのところへ走って行って訴えます。ペトロたちは急いで墓に走り、墓の中を覗き、イエスの体を包んでいた亜麻布が置いてあるのを見ました。もう一人の弟子も墓の中に入ってきて、見て、信じた。この最後の「見て、信じた」以外の「見る」はぜんぶ墓の中を見つめて絶望しています。じっと墓の中を見て、絶望している。墓から石が取りのけられていたのも、墓からイエスの体がなくなっていたことも、彼らにとっては恐れを呼び起こすただの雑音でした。彼らは徹底的に絶望していました。

本当に私は、自分がここにいると思います。墓の中を見ながら、現実を見ていると思い込んでいます。しかしいくら墓を見つめても、ますます絶望が深くなるだけです。特に今の時代は希望が見えにくい時代です。コロナや戦争があり、物価高や食糧危機、円安など、明るい兆しが見えない。そんな時代の中で教会はどうなのでしょう。世間と一緒に暗く沈んでいやしないだろうか。マリアは主が墓から運び去られて、今どこに置かれているのか分からないと嘆きました。主がどこにおられるのか、私たちにも分からなくなってはいないでしょうか。

本当は、墓を見るにしてもこれと違う見方があるのです。石が取りのけられていたことも、主が墓の中におられないことも、本当はキリスト復活のしるしだったのです。神が新しい出来事を始めているしるしだったのです。8節に「見て、信じた」と書いてあります。この「見る」という言葉は他の「見る」と違う単語が使われています。心の目で見るといったニュアンスがある。墓の中にイエスがおられず、亜麻布が丸めておいてあることの意味を、彼らは見始めていた。しかし興味深いことに続けて「イエスが死者の中から必ず復活されることを記した聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」と矛盾することが書かれている。これが私たちの実際のところではないでしょうか。信じ始めている。しかし、まだ聖書が語る福音を分かっていない。だから揺らいでいる。しかしそういう私たちに主イエス、今生きておられるキリストが出会ってくださる。それが主の日の出来事です。

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