2022年7月17日「新しい墓が新しくなる」
聖書:ヨハネによる福音書19:38~42
説教題:新しい墓が新しくなる
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主イエス・キリストが埋葬されました。私たちも愛する人を葬り、やがて私たち自身も葬られることになります。主イエスは死に、葬られることによって、完全に私たちと同じ者になられたと言うことができるのではないでしょうか。主イエスを葬ったのは、アリマタヤ出身のヨセフ、そしてニコデモという二人の人物でした。
アリマタヤのヨセフはピラトの所へ行ってイエスの遺体を引き取りたいと願い出ます。イエスはたった今、死刑になったばかりです。その遺体を引き取りたいというのは勇気のいったことだったと思います。ヨセフはこれまでもイエスを信じ、その弟子でしたが、ユダヤ人を恐れてそうとは言えないできました。この人は身分の高い議員だったようです。そういう自分の立場を考えると、なかなか言い出せなかったのだと思います。あるいはもう一人のニコデモはファリサイ派の人です。かつて、ある夜にイエスのところへ教えを請いにやって来たことがありました。或いは議会やファリサイ人らがイエス憎しと息巻いていた時に彼らを諫めようとしたこともあります。しかし、彼はイエスを十字架につけるのを止めようとは言えませんでした。それで、ヨセフもニコデモも、せめてイエスのお体を心を込めて埋葬しようとした。ヨセフは遺体を引き取り、ニコデモは大量の香料をもって、イエスを葬ったのです。この時彼らは、まさか三日目になってこの墓が復活の舞台になるなどとは露程にも思わなかったことでしょう……。この時の彼らの絶望は、詩編第88編に言い表されている絶望と同じだったと思います。深い絶望の詩編です。神は私の祈りも魂の叫びも聞いてくださらない。「あなたは死者のために奇しき業をなさるでしょうか。死者の霊が起き上がって、あなたをほめたたえるでしょうか。あなたの慈しみが墓の中で、あなたのまことが滅びの国で語られるでしょうか。」
私はヨハネが伝えているこの主イエスの埋葬の記事を読み、イエスの墓の場所が心に残りました。十字架にかけられたところの園にあった新しい墓に埋葬された、と書かれています。園だった。パスカルが『パンセ』でこのようなことを言っています。「イエスは園におられる。それは、初めの人アダムが自分と全人類とを堕落させた快楽の園ではない。かれが自分と全人類を救われた苦悩の園である。」パスカルがここで言っている「園」は本来はゲツセマネの園のことですが、主イエスが葬られた園にまでそのイメージを広げることも許されると思います。そもそも死の恐ろしさ、厳しさは、関係がまったく断たれてしまうことです。死ねばもうあの声を聞くことも、あの目差しを見ることもできません。どんなに愛していても死は孤独です。まして私たちは、神さまの前で一体何者でしょう。詩編第88編でも神さまの前からの断絶に絶望していました。どうして断絶したのかと言えば、私たちが神さまを断ち切り、捨てたことに始まります。私たちは神から捨てられた罪人として死ぬ。ところが独り子なる神ご自身である主イエスの墓は「悪人どもと共にされ」ました(イザヤ53:9)。主イエスは罪人として捨てられた私たちに徹底的に共にいてくださる。しかも、その方が復活し、墓から甦るのです。私たちにとって墓は行き止まり、絶望の場所です。しかしイエスは墓に眠る私たちの手を取って起こすために甦り、墓を新しい望みの場所に変えてくださったのです。
説教題:新しい墓が新しくなる
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主イエス・キリストが埋葬されました。私たちも愛する人を葬り、やがて私たち自身も葬られることになります。主イエスは死に、葬られることによって、完全に私たちと同じ者になられたと言うことができるのではないでしょうか。主イエスを葬ったのは、アリマタヤ出身のヨセフ、そしてニコデモという二人の人物でした。
アリマタヤのヨセフはピラトの所へ行ってイエスの遺体を引き取りたいと願い出ます。イエスはたった今、死刑になったばかりです。その遺体を引き取りたいというのは勇気のいったことだったと思います。ヨセフはこれまでもイエスを信じ、その弟子でしたが、ユダヤ人を恐れてそうとは言えないできました。この人は身分の高い議員だったようです。そういう自分の立場を考えると、なかなか言い出せなかったのだと思います。あるいはもう一人のニコデモはファリサイ派の人です。かつて、ある夜にイエスのところへ教えを請いにやって来たことがありました。或いは議会やファリサイ人らがイエス憎しと息巻いていた時に彼らを諫めようとしたこともあります。しかし、彼はイエスを十字架につけるのを止めようとは言えませんでした。それで、ヨセフもニコデモも、せめてイエスのお体を心を込めて埋葬しようとした。ヨセフは遺体を引き取り、ニコデモは大量の香料をもって、イエスを葬ったのです。この時彼らは、まさか三日目になってこの墓が復活の舞台になるなどとは露程にも思わなかったことでしょう……。この時の彼らの絶望は、詩編第88編に言い表されている絶望と同じだったと思います。深い絶望の詩編です。神は私の祈りも魂の叫びも聞いてくださらない。「あなたは死者のために奇しき業をなさるでしょうか。死者の霊が起き上がって、あなたをほめたたえるでしょうか。あなたの慈しみが墓の中で、あなたのまことが滅びの国で語られるでしょうか。」
私はヨハネが伝えているこの主イエスの埋葬の記事を読み、イエスの墓の場所が心に残りました。十字架にかけられたところの園にあった新しい墓に埋葬された、と書かれています。園だった。パスカルが『パンセ』でこのようなことを言っています。「イエスは園におられる。それは、初めの人アダムが自分と全人類とを堕落させた快楽の園ではない。かれが自分と全人類を救われた苦悩の園である。」パスカルがここで言っている「園」は本来はゲツセマネの園のことですが、主イエスが葬られた園にまでそのイメージを広げることも許されると思います。そもそも死の恐ろしさ、厳しさは、関係がまったく断たれてしまうことです。死ねばもうあの声を聞くことも、あの目差しを見ることもできません。どんなに愛していても死は孤独です。まして私たちは、神さまの前で一体何者でしょう。詩編第88編でも神さまの前からの断絶に絶望していました。どうして断絶したのかと言えば、私たちが神さまを断ち切り、捨てたことに始まります。私たちは神から捨てられた罪人として死ぬ。ところが独り子なる神ご自身である主イエスの墓は「悪人どもと共にされ」ました(イザヤ53:9)。主イエスは罪人として捨てられた私たちに徹底的に共にいてくださる。しかも、その方が復活し、墓から甦るのです。私たちにとって墓は行き止まり、絶望の場所です。しかしイエスは墓に眠る私たちの手を取って起こすために甦り、墓を新しい望みの場所に変えてくださったのです。
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