2022年7月10日「人の浅知恵、神の深慮」

聖書:ヨハネによる福音書19:31~37
説教題:人の浅知恵、神の深慮

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主イエスが十字架にかけられたのは、今の私たちの暦でいえば金曜日の昼間。その日没から翌土曜日にかけて安息日になります。しかも、特別な安息日、即ち過越祭の日でした。今の私たちの感覚でいえばお正月です。ユダヤ社会にも、それぞれの家族にも、特別な晴れの日です。ところがここで問題なのが、十字架にかけられている男たちの死体の処置です。聖書で、木に掛けた死体は夜通し木に残してはならず、その日のうちに葬るようにと命じられています。なぜなら「木に掛けられた者は、神に呪われた者だからである(申21:23)」。それで、さっさとイエスの足の骨を折って死期を早め、特別大切な安息日になる前に死体を処分しようと考えました。そこには徹底したイエスへの憎しみと呪いがありました。ところが確かめてみるとイエスは既に死んでいた。兵士の一人がそのことを知りながらイエスのわき腹を槍で突き刺しました。すると血と水が出てきたといいます。

イエスは回りにいた人たちの呪い、怒り、憎しみ、傷つけても構わないという残酷さ、自分たちの都合のために人の命を犠牲にしても構わないという身勝手、そういったもののためになぶり殺されました。なぜ、ユダヤ人たちはそこまでしてイエスを殺したかったのか。10:47,48を見ると、自分たちユダヤ社会がローマに滅ぼされないようにするための人身御供としてイエスを殺そうと相談しています。国を守るという大義名分も、一皮剥けば私憤のかたまりでした。人間の考えるところは、本当に浅薄な浅知恵です。主イエスの十字架を前に、そのことが明らかになってしまった。他人事では決して無い、自分の問題として、そのように思います。

人間の営みは、どれもこれも浅知恵にすぎないのかもしれません。21世紀になって21年経ちました。私が子どもの頃に思い描いていた世界と現実の世界とはぜんぜん違いました。世紀が明けてすぐに同時多発テロがありました。アフガニスタンやイラクで戦争が始まりました。日本でも欧州でも、時間をかけて少しずつ民主主義が崩れていきました。震災で起こった原発事故では原子力の恐ろしさを見せつけられましたが、10年経って社会の喉元を過ぎてしまい、今年の暑さの中で原発を巡る論争が起きています。そして、一昨日には元総理大臣が殺害されました。断片的に警察が発表する犯行動機を聞くと、思想犯であるのではなく個人的怨恨、しかも被害者本人への直接的なものではない怨恨のようです。社会が社会として成立していた前提がもう崩れ去っていることを見せつけられるような薄気味悪さを覚えます。この事件だけではなく、この十数年ずっと底流していた恐ろしさです。

私は今日の御言葉を読んで怖くなりました。私たちの浅知恵が殺したのは、他でもなく神の子です。私たちは神の子を憎んで殺したのです。しかし神さまは私たちの浅知恵が支配するかのようなこの世界で、ご自身の御心を行っておられます。主イエスはわき腹を刺され、血と水を流しました。1ヨハ3:5-6、ヨハ7:37-39aによれば、主イエスの与える命の水にあずからせる神の霊です。浅ましく禍々しい私たちを洗い流す血と水が流れている。主イエスの骨は砕かれませんでした。出12:46、詩編34:19-23。そして、主を突き刺した者は神ご自身を仰ぐ(ゼカ12:10)。私たちを救う神の御心が十字架の上で貫かれているのです。

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