2022年7月3日「神の愛は成し遂げられた」

聖書:ヨハネによる福音書19:28~30
説教題:神の愛は成し遂げられた

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主イエスが十字架にかけられたのは過越の小羊を屠る日でした。イスラエルにとっては特別な日です。過越。かつて、イスラエルの人々はエジプトの国で奴隷にされ、苦しんでいました。彼らの叫びを聞き、神さまがモーセを遣わして救ってくださった。モーセはファラオの前に行き、イスラエルを解放するように要求しましたが、ファラオは応じません。そこで神さまはエジプトに10の災いを起こします。その最後、10番目の災いは、エジプト中のすべての初子が死ぬという恐ろしい災いでした。イスラエルの人々に、このように命じます。一歳の小羊を準備し、それを屠り、その血を家の戸の鴨居と柱に塗る。するとその血のしるしを見た神の御使いはその家を過ぎ越し、災いは起こらない。この過越の出来事によってイスラエルの人たちはエジプトを出ることができた。これを記念して、彼らは毎年春になると過越祭をします。小羊を屠り、その血にヒソプの枝を浸して家の戸の鴨居と柱に塗るのです。

主イエスの十字架は、この小羊を屠る日の出来事でした。主イエス・キリストご自身が小羊になって、十字架にかけられて血を流したのです。ヒソプの枝で鴨居に血を塗るように、酸いぶどう酒にヒソプの枝が浸され、十字架の上のイエスの口元に掲げられています。十字架の上で「渇く」と呻くイエス様に人々が差し出したのは、水ではなく酢でした。詩編69:22には「(人々が)渇く私に酢を飲ませようとします」と言って、その侮辱を嘆く言葉があります。屈辱の酢を受けて、主イエスは十字架の上で言ったのです。「成し遂げられた」と。

「成し遂げられた。」すべてが終わった、ということです。聞きようによっては、もうイエス様は万策尽きたと言って諦めた、もう何もかも終わりだと言ったとも聞こえます。事実、主イエスは十字架の上におられる。主イエスは、いよいよ十字架の上で挫折したと認めたのでしょうか。
主イエスは、十字架の上にいても、母マリアを心にかけて愛弟子に託しました。あるいは弟ラザロを喪って悲しみに暮れる姉妹のところへ行き、生まれつき目の見えなかった人を癒し、皆が殺そうと息巻いていた姦淫の女を赦し、サマリアの女と向き合ってきました。その間ずっと、ユダヤ人の犯行にも一つひとつ応えてきました。イエス様は諦めない方です。「成し遂げられた。」この単語は、13:1にも登場します。主イエスは「最後まで」弟子たちを愛しぬき、彼らの足を洗いました。思えば彼らはこの数時間後にイエスを裏切り、見捨ててしまいます。主イエスには足を洗う前からそのことが分かっていた。諦める理由はいくらでもあったけれど、主は彼らを愛することを諦めませんでした。愛し抜きました。その愛は足を洗う手となり、今やその手は十字架で釘に打たれるにまで貫かれた。成し遂げられたのです。イエスの愛が、神の愛が成し遂げられたのです。最後まで、極みまで私たちを愛し抜く神の愛がここになしとげられた。詩篇69編は自分を苦しめる者を呪う詩編ですが、主イエスは呪わず、極みまで愛しぬいたのです。

主イエスは十字架の上で息を引き取られました。息というギリシア語は霊という意味も持ちます。私たちは十字架でイエスが引き渡した霊を受けて今生きているのです。

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