2021年12月26日降誕祭礼拝「低きにくだる神」

聖書:フィリピの信徒への手紙2:6~11
説教題:低きにくだる神


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クリスマスは讃美歌にあふれています。本当にすばらしい讃美歌がたくさんあります。今はコロナがあって讃美歌の曲数も、歌う節数も減らしています。断腸の思いです。しかしクリスマスの讃美歌を歌う喜びにいささかの変化もない。私の妻は、特に若い頃は讃美歌が歌いたくて教会に行っていたようなものだったと最近ふり返っていましたが、気持ちはよく分かります。教会にはたくさんのすばらしい讃美歌がありますが、特にクリスマスは美しく、心熱くなる讃美歌がたくさんあります。今日、私たちに与えられているフィリピの信徒への手紙2:6〜11は、もともと、2000年前の教会で歌われていた讃美歌の一節であると言われています。2000年前は現代のように印刷された聖書があったわけではなく、誰でも聖書を読めるわけではありませんでした。そこで人々は讃美歌を歌いました。讃美の言葉を繰り返し口に上らせ、歌うことでキリストの恵みを知ったのです。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」クリスマスの出来事を伝える言葉です。ここに二度繰り返して「身分」という言葉が出てきます。この言葉は、別の翻訳では「かたち」と訳されています。キリストは神のかたちであったが、僕のかたちになられた。この「かたち」という言葉は、外だけが似ているということではなく、中からすっかり似ていることを現す字です。キリストは中からすっかり神だけれども、中からすっかり僕になった。それがクリスマスに起こった出来事だと言うのです。

自分に置き換えてみて考えてみました。例えば子どもとの関係。うわべだけ子どもの言い分を聞く好い親のフリをすることはできても、中身まですっかり子どもと同じになるのは簡単ではありません。子どものように感じ、子どものように見、子どものように思う。……ほとんど不可能な気がします。まして、神が人になったと言うのです。それにしても、どうして親は子どものようになれないのでしょうか。私にも、善くも悪くも40数年間かけて培ってきたものがあります。常識や、プライドや、立場、いろいろありますが、そういうものが相手と同じになることを邪魔をする。それは親子だけの話では当然ありません。あらゆる人間関係で同じだと思います。自分の正義感や、価値観や、信念が邪魔をする。自分の正しさに固執し、自分のアイデンティティにしがみついてしまう。ところがキリストは、中身まですっかり神と同じものであることに固執せずに、中身まですっかり僕になってしまいました。この「固執する」という言葉は、「強奪する」という字です。穏やかではない。命を懸けて強奪したものは簡単には手放せません。私たちは自分を手放せない。キリストは、ご自分を手放して私たちのところに低く降ってこられたのです。自分を捨てて相手と同じ目の高さになることを、「愛」というのです。

ましてやキリストは神なのに、人になられた。私たちには想像もつかない、途方もないことです。神としてのご自分に固執せずに人になるというのは、究極の自由です。誰にも強いられたのではない究極の自由な愛です。クリスマスはキリストの究極の愛を祝い、喜び、感謝する日なのです。

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