2021年11月21日「私たちはキリストの友」

聖書:ヨハネによる福音書15:7~17
説教題:私たちはキリストの友

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主イエスは言われます。「これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」これこそ今日私たちが耳にしているキリストの福音宣言です。キリストご自身が喜んでおられる。私たちと無関係なところで一人で喜んでいるというのではなくて、キリストの喜びが私たちの内にある、と言います。そして私たちの喜びも満ちて、あふれている。喜びと喜びが行き交っている。まるで新婚夫婦が一緒にいるだけでしあわせな喜びを味わっているように、キリストの喜びと私たちの喜びも満ちあふれている、とキリストは言われます。

何をそこまで喜んでいるのか。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」私たちの喜びは、キリストに「わたしの友」と呼んでいただく喜びです。私たちはキリストの友です。

子どもを見ていると、つくづく子どもは友だち作りの天才だと思います。しょっちゅう喧嘩をしたり仲直りしたりしています。考えてみれば、例えば上司とは喧嘩をしたり仲直りしたりはそうそうしません。上司と部下は対等ではない。しかし友は対等です。英語のfriendという言葉は、自由freeと同じ語源から生まれた言葉なのだと聞いたことがあります。友は何にも制約されない、自由で対等な関係、愛によって成り立つ関係です。キリストは私たちを友と呼んでくださるのです。

友は僕(しもべ)と違います。僕は主人がなぜこのような命令をしたのか、主人が何をしようとしているのか、知りません。僕は黙って主人の言うことを聞く。しかし友は違います。私たちは友として、キリストが何をしようとしているのかを知っている、と言うのです。これは驚くべき言葉です。なぜなら、私たちには分からない事だらけだからです。意味の分からぬ理不尽や、つらくても自分で引き受けねばならないこと、どうしてこのようなことになるのか納得できないこと、いろいろなことが起こるからです。神さまは一体何をしておられるのか?ところが私たちはキリストの友として、それをよく知っている、と主イエスは言われる。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という主イエスのお言葉、この一句にイエスの志は尽きるのです。

主イエスはこのようにも言われます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」最後に「任命した」と言っています。この言葉は、もともとは「置く」という単語です。日本語でも「配置する」と言いますが、ある使命を果たすために置かれれば、それが「任命」ということになる。それにしてもそのことを「置く」という表現をしていることに心惹かれました。つまり、わたしを今ここに置いたのは、キリストなのです。ここがどんなに理不尽だったり、世界がデタラメだったりしても、キリストがわたしをここに置いた。私たちが行って実を結ぶために。愛の実りです。喜んで友を信頼しましょう。キリストの友として、私たちも愛の実を結ぶ約束に生きているのです。

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