2021年11月7日「実り豊かに生きよう」

聖書:ヨハネによる福音書15:1~10
説教題:実り豊かに生きよう

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新約聖書はギリシア語で書かれています。この言語にはとても面白い特徴があります。命令形、「行け」とか「止まれ」とかそういう言い回しですが、これに二種類ある。継続的な命令を現す形と、一回的な命令を現す形です。例えば、「赤信号の時は止まりなさい」と言えば、継続的な命令です。その時だけではなくていつでも止まらなければなりません。しかし子どもが道路に飛び出そうとしているのを見て「止まれ!」と叫ぶ、それは一回的な命令です。これはいつでも通用する言い方ではなく、他でもない「今・ここで」の特別な意味を持つ言い方です。
主イエスは言われます。「私につながっていなさい。」これは、一回的な命令を現す言い回しが使われています。「さあ今、私につながりなさい」、主イエスはそう言われます。今、イエスにつながる決断を求めておられる。あるいは9節には「私の愛にとどまりなさい」と言っておられます。これも同じく一回的な命令を現す表現です。しかも、最初の「(ぶどうの木に)つながる」と次の「(イエスの愛に)とどまる」という二つの動詞は、まったく同じ言葉です。ぶどうの木につながるとは、イエスに内にとどまるということです。イエスの愛にとどまるとは、イエスの愛につながるということです。主イエスは言われます。私の内に留まれ、私もあなたの内に留まる。私の愛の中に留まれ、私の愛につながれ、と。今日、キリストは私たちがご自分の愛の中に住むようにと招いておられます。

「私はまことのぶどうの木」と始まる今日の御言葉は、愛しておられる方の多い箇所ではないかと思います。ぶどうの木やぶどうの実を思い浮かべながら聖書を開いておられる方も多いでしょう。おいしくて人を喜ばせるような実を結ぶ私でありたいです。ただ、そう言いながらも今日の御言葉を読んで、私には少し恐ろしいような思いもしています。2節です。「私につながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」さらに6節。「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」厳しい言葉です。悩みます。実りって一体何だろう。私には豊かな成果を上げているわけでもなく、人より優れていて役立つ知識も経験もありません。そうすると実らない枝としか言いようがない。しかしそう考えると辛いです。

第二次世界大戦のとき、ナチは意に沿わない者たちを次々に戦場に送りました。シェーンヘルという牧師も東部戦線に送られ、やがて捕虜になって収容所送りになりました。彼は戦後の社会を考え、収容所の中に神学校を作りました。戦後解放され、希有な成果を教会の指導者に報告した。すると言われました。「若い兄弟よ、キリスト者に成功はありません。キリスト者は実を結ばせていただくだけです。」私はこの話を聞いて、自分がとんでもない思い違いをしていたと気づきました。もともと、キリストは「実を結べ」とは命じておられないのです。キリストの命令は「私につながりなさい」であり「私の愛にとどまりなさい」です。そうすれば必ず実を結ぶ。キリストの愛を離れ、キリスト抜きにどうして私が愛の実を結ぶことができるでしょうか?食えたものではない実しかない私を赦し、豊かな実りを約束してくださるキリストの愛ぬきに、どうして私は実を結びうるしょうか。

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