2021年10月17日「わたしについて来なさい」

聖書:エレミヤ書16:16
   マルコによる福音書1:14~20
説教題:「わたしについて来なさい」
説教者:饒平名丈神学生

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イエスの宣教活動の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ。」でした。洗礼者ヨハネも罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を説いておりました。洗礼者ヨハネは、後からくるイエスは自分よりも優れており、水による洗礼ではなく、聖霊でもって悔い改めの洗礼を授けると明確に述べています。洗礼者ヨハネのもとへは大勢の民衆が来て洗礼を受けていたことがわかります。

はたして、ガリラヤで宣教を始めたイエスのもとへはどれくらいの民衆が集まったのでしょうか。マルコは簡潔にこの箇所を描きます。あたかも周囲に大勢の群衆がいようがいまいが、弟子たちを選ぶことに周囲の人数など関係ないというように見えます。シモンら4人の弟子たちは自らイエスを訪ねたわけでなく、逆にイエスの方が声をかけられたのです。イエスは湖で漁をしていたシモンに言われました。17節です。
イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
 ここで人間を取る漁師とは、どういう意味でしょうか。イエスに従うことによって、新しい仕事が始まる。それはイエスが語られる「福音」を人々に告げることでしょう。悔い改めてイエスの十字架と復活を信じて生きる、「福音」の素晴らしさを多くの人々に伝えることを言い現わしたものかと思います。

当時のユダヤ教の文化では、ラビ(教師)のもとに弟子志願者が集まり、先生と行動を共にし、そのうち独立してみずからラビとなるのが通常の師弟関係だったようです。イエスの場合は異なりました。おそらくは一般のラビたちが認めなかったと思われる漁師や取税人を、イエスの側から選んで弟子にしました。

シモンは試験受けて選ばれた者ではなく、高名な律法学者に教え受けたわけでもありません。また、イエスはガリラヤ湖漁師全員に声かかけられたわけでもなく、二組の兄弟たち4人、それぞれに声をかけられました。「イエスが彼らをご覧になったとき、それは単に表面的に「見た」というだけではなくて、見つめた、つまり、深いまなざしを向け、目をとめられたのです。

4人の漁師たちは、それぞれがイエスと一対一で出会いました。彼らが望んで出会ったのではなく、イエスの側からのまなざしを受けました。イエスから「ついてきなさい」と直接招かれました。だからこそ、用意するものなんて考えもしなかったでしょう。イエスの招きに直ぐについていきました。

主イエスはわたしたち一人一人をこの礼拝に招いておられます。『わたしについて来なさい。』と。私たちも、生活のなかで抱えている重荷をおいて、その招きに従い、主の恵みのうちに生きる生活を始めようではありませんか。

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