2021年8月29日「神は真心を欲している」

聖書:エレミヤ書3:19~4:4
説教題:神は真心を欲している

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 「わたしは思っていた」と今朝の聖書の御言葉は始まっています。ここでの「わたし」というのは、神さまのことです。神さまの思いがここで明かされている。しかも、この言い回しのニュアンスは、他でもないこのわたしが、といったかたちで「わたし」を強調している。神さまの切なる重いがここで語られているのです。その思いとはいかなる思いなのか。「子らの中でも、お前には何をしようか。お前に望ましい土地、あらゆる国の中で、最も麗しい地を継がせよう」と言っています。少し細かい話しになりますが、この「子ら」は、もう少し詳しく言うと「息子たち」です。それに対して「お前」という二人称は女性形の二人称が使われています。つまり、「お前」とここで呼ばれているのは、娘です。もちろん、主イエスと並ぶ娘が他にいるとかそういうことではない。イスラエルの人々を娘に例えている。神さまにとって、神を信じる者たちは他人ではない。愛する娘です。更に言うと、当時の社会は家父長的でしたので娘が財産を相続することはできませんでした。例外的に男の兄弟がいなければ継ぐことができた。ところがここでは息子たちに囲まれている娘のお前に何を継がせようかと言って、「最も麗しい地を継がせよう」と言うのです。社会の法も慣習も破るような仕方で、お前にこれを与えると言っている。それだけ強く愛しているということです。わたしはあなたを愛している、特別に、端から見れば依怙贔屓といわれるほどに愛している。それが神さまの思いなのです。

 しかし、人間の歴史は、神さまの熱い愛への裏切りの連続です。「裸の山々に声が聞こえる。イスラエルの子らの嘆き訴える声が」とあります。この「裸の山々」というのは地場の宗教であるバアル神への礼拝場所です。バアルは豊穣の神であり、女神との性的な結合によって作物の実りを与えると信じられていました。そうするとそこでの礼拝では性的な乱痴気騒ぎが起こり、また豊かさを求めて富を喜ぶ、ということになります。主なる神さまへの礼拝にバアル神への礼拝スタイルが知らず知らずの内に忍び込んでいたのです。これは「古代のバアル信仰という邪教」の話ではない。今の私たちへの問いです。つい先日も国家の威信を誇示するために世界的なスポーツイベントが開催されました。足下で毎日起きていることを無視しながら際限のない消費を豊かさの象徴とし、欲の達成を絶対的な善とする価値観。それがバアル崇拝です。しかし裸の山々で快感に酔う声を、神さまは「嘆き訴える声」だ、と言うのです。楽しんでいるようでいて「助けて、助けて」と叫んでいる。それは、欲望の肯定は快楽のようだけど、「我々の若いときから、恥ずべきバアルが食い尽くしてきました…息子、娘たちを」と言っているとおり、実はバアルという欲望に食い尽くされている。私たちは気づかなかったけれど、実は私たちは欲望の食い物にされてきた。神さまには、私たちの「助けて」という声になっていない叫びが聞こえていたのです。

 だから、神さまはひたすら私たちに呼びかけています。「立ち帰れ、イスラエルよ」と。神さまは私たちが神さまのところへ帰るのを待っていてくださいます。私たちがどんなに神さまの真心を裏切っても、神さまは私たちの真心をなお求め、立ち帰るのを待っていてくださるのです。神の愛に帰る私たちを、周囲の人々へ神さまの祝福を届ける器に、神さまはしてくださるのです。

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