2021年8月22日「荒れ野のイエス」

聖書 イザヤ書11:6~10
   マルコによる福音書1:12~13
説教題 荒れ野のイエス

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 マルコによる福音書の特徴として学ぶことのひとつに、「すぐに」という単語が頻繁に使われていることです。ヨハネから洗礼を受けたイエスが、「それからすぐに」直面することは何でしょうか。「“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。」とあります。この「送り出す」の原文は「悪霊を追い出す」ときの「追い出す」と同じ言葉が使われているのです。すなわち、“イエスを荒れ野へ追い出す”のです。ヨハネより洗礼を受け、神より「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と承認されたイエスは「すぐに」荒れ野へ「追い出される」のです。マルコによる福音書の1章35節には次のようにあります。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」ここでの“人里離れた所”と、12節の“荒れ野”とは同じギリシャ語が使われています。ここでの“荒れ野”は孤独になれる、神と対話できる静かな場所のイメージもあるでしょう。また場所に限らず、孤独にされた人とか社会から見放された人と見ることもできます。

 私が洗礼を受けたのは高校2年生の時でした。その時は本当に主のため、人のために役立つ仕事につきたいとの気持ちでいっぱいでした。しかし、教会から家に帰ると、私自身が荒れ野に置かれたように感じました。当時の私にとって周囲の環境自体が荒れ野であって、地方の文化や習慣、伝統との共存、財力や学歴信仰など、ある意味での偶像礼拝との闘いでした。

 マルコがこれらの短い2節の御言葉で、伝えたかったことは何でしょう。イエスがヨハネから洗礼を受け、直ぐに荒れ野へ送られ、サタンの誘惑と戦い、天使たちが仕え、野獣と共にいたことを通して、人の子イエスがメシア、救い主、まことの神であることを伝えています。これはイエスの地上生涯を指し示すものではないでしょうか。神が人となり、荒れ野の誘惑を体験され、その後すぐに宣教をはじめ、病に苦しむ者を癒し、苦しみや悲しみの中にある者を慰められました。その生涯は戦いの連続でした。ある意味で、十字架につかれる最後まで、荒れ野を私たちのために歩んでくださったとも言えるのではないでしょうか。

 私たちは受洗のとき、イエスの十字架を通して、神からの恵みを知り、心が燃えたことでしょう。しかし、私たちは荒れ野へ送られるのです。この世界がいかに罪深く、自分もまた神と人とを本当の意味で愛せない弱さを持つ者であることに気づき、傷つき、悩むのです。しかし、この荒れ野から離れて生活するのではなく、誘惑多き、偶像礼拝に満ちたこの世界で、その只中に来てくださり、神の子として誘惑に打ち勝たれたイエスを見上げ、はばかることなく御前に私たちは自分たちを差し出すのです。日曜日朝の礼拝に賛美と祈りを捧げるのです。もう荒れ野ではない。主イエスが私たちとともにいてくださる場所は、荒れ野に「野獣とともにいる」世界、そこに神のみわざと愛が実現していく世界なのです。

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