2021年8月15日「鶏が鳴くまでに」

聖書:ヨハネによる福音書13:36~38
説教題:鶏が鳴くまでに

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 ポーランドの作家シェンキェーヴィチが『クオ・ワディス』という小説を書いています。舞台は皇帝ネロが支配するローマの都。ネロの謀略によりローマが大火に見舞われ、キリスト者達がその犯人に仕立て上げられて大迫害が起こり、多くのキリスト者が殺されました。使徒ペトロは他のキリスト者達の必死の説得によりローマを脱出することとなり、アッピア街道を下ります。その途上、ペトロは不思議な光が近づいてくるのを見ます。すると彼は気づいたのです。その光が一体誰なのか。キリストが自分の方に歩いてきておられる。ペトロは尋ねます。「クオ・ワディス・ドミネ?」ローマの言葉であるラテン語で「主よ、どこへ行かれるのですか」という意味です。キリストは彼に答えられます。「お前がわたしの民を捨てるなら私はローマへ行ってもう一度十字架にかかろう」。ペトロはそこから引き返してローマに戻り、遂に十字架にかけられて殉教したのです。
 「主よ、どこにいかれるのですか。」この言葉は36節に出てきます。ここでもやはりペトロがイエスに尋ねる。「主よ、どこに行かれるのですか。」これはイエスが33節で「『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく」と言ったのを聞いて、ペトロが問うたのです。「主よ、どこにいかれるのですか」と。ペトロは、主イエスが、ご自身がこれから死ぬと言っておられることに気づいていました。だから言葉を重ねます。「あなたのためなら命を捨てます」。しかしイエスはそれに対しておっしゃいました。「わたしのために命を捨てるというのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう。」そしてこの対話の数時間後、まさにイエスの言った通りになった。
 私は今日の聖書の言葉を読みながら、少し苦しい気持ちになりました。臆病な自分がペトロの立場にいたら、同じようにしただろうと考えざるを得ないからです。奇しくも今日は8月15日ですが、あの戦争の時、私たちの先輩のキリスト者にも殉教した人々がいました。潮田先生に洗礼を授けた竹入牧師のお父様もあの戦争中に信仰のゆえに捕らえられ、獄中で感染した結核のために亡くなったそうです。潮田先生はそのご子息に洗礼を授けられた自分は殉教者の「孫」だと思っているとおっしゃいます。さがみ野教会には殉教者のひ孫が何人もおられるのです。
 「私の行くところに、あなたは今ついて来ることはできない」と言われて、ペトロは心外でした。自分はそんな臆病ではないと思いました。しかし実際は主がおっしゃるとおりになった。では、ペトロがもっと勇敢だったらよかったのでしょうか?どうもそういうことではないのではないようです。これからイエスはどこに行かれるのか。イエスは十字架に上げられ、父なる神のもとへ上って行かれる。ここで十字架に死ぬのは独り子なる神です。ペトロにはついて行かれない。イエスは神の子で、ペトロが人間だからです。イエスの死の意味を、ただイエスご自身だけが知っておられた。神の独り子が十字架にかけられた。この事実が私たちを死から救う。神の子が私のために死んだ。ペトロはキリストの死の意味を知り、やがて殉教しました。私たちも同じです。キリストの死によって私たちは自分の死を見つめることができるし、私たちもキリストに従う者として死ぬことができるのです。

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