2021年8月1日「夜」

聖書:ヨハネによる福音書13:21~30
説教題:夜

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 イスカリオテのユダ。この人の存在は私にとっては一つの問いです。私は小さなころから教会学校で育ってきました。ユダという人が主イエスを裏切ってしまったという話は聞かされてきたのだと思います。ただ、主イエスが裁判にかけられているときにイエスを知らないと三度も繰り返して言ったペトロの話の方がよく耳にしました。ユダの話は、もしかしたらあまり積極的にされていないのではないかとさえ思います。確かに、カトリックやルーテル教会など、教会暦に従って説教する聖書の御言葉が定められている教会では、3年や4年の教会暦のサイクルの中に今日の箇所は登場しません。今日の箇所はあまり説教されていないのです。その理由も、分かる気がします。ペトロはイエスを知らないと言ってしまいますが、後にガリラヤ湖で復活した主イエスと再会することなどを通して立ち直ります。ところがユダはイエスを裏切り、その結果イエスが十字架にかけられることになったと知って自殺しました。あまりに救いのない結果…。戸惑い、ユダについては口が重くなってしまう。イスカリオテのユダという名前を聞くだけでも、私の心はどこかで騒ぎ出します。

 しかも、主イエスの振る舞いも不可解な感じがします。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と主イエスに言われて弟子たちは顔を見合わせ、ペトロはすぐ隣りにいた弟子に誰のことかを尋ねるように合図します。すると主イエスは「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と言って、ユダにパンを渡しました。なぜ、主イエスはこんなことをしたのでしょうか。やめろ、わたしの側を離れるな。どうしてそう言わなかったのでしょうか。結局、イエスご自身は十字架にかけられ、ユダも自殺します。その後の教会の歴史の中では、裏切り者として蔑まされてきました。あんまりではないだろうか…?

 ユダは他の弟子の仲間たちからどう思われていたのでしょうか。イエスがパン切れを渡したとき、他の人たちには意味が分かりませんでした。まさかユダが裏切るだなんて誰も思いませんでした。ユダが出ていったときにも、貧しい人に施しをするためではないかとさえ思われています。ユダは一行の財布を預かっていましたが、信頼されていなければ任されない仕事です。ところがユダは悪魔に心を奪われて、イエスを裏切るためにイエスの食卓を離れ、外に出て行ってしまいました。「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出ていった。夜であった。」この最後の「夜であった」というのは単に時刻を伝えようとしているのではなく、ユダが夜の闇の中に出て行ってしまったと、とても象徴的な書きかをしているのでしょう。仲間からは信頼されていたユダは、結局は闇の中に消えてしまった。

 これはユダの個人的な問題なのでしょうか?シモン・ペトロも他の弟子も後でイエスを見捨てます。更にユダはイエスを「裏切った」と言いますが、この言葉は祭司長らがイエスを十字架にかけるために「引き渡した」というのと同じ言葉です。つまりユダだけでなく他の弟子も、他のユダヤ人も、皆同じです。私たちの存在の根に巣くっている、心の宿痾のような悪が私たちを夜の闇へと追いやるのです。イエスはそういう闇の中に輝く光として私たちのところへ来ました。イエスは十字架へと向かって行かれます。まさに罪の闇の中にイエスという光が輝くのです。

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