2021年7月4日「究極の愛」

聖書:ヨハネによる福音書13:1~11
説教題:究極の愛


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新約聖書には四つの福音書が収められていますが、それぞれが個性的な存在です。特にヨハネによる福音書は独自の輝きを放っています。中でも、いわゆる最後の晩餐と呼ばれる、主イエスが十字架にかけられる前の晩に弟子たちと一緒に囲んだ食卓について、第13章から第18章まで、実に6章を割いて丁寧に報告している。しかも、ただ単に事実を羅列しているのではなく、明確なメッセージ、つまり「福音」を届けるために、考え抜かれた既述を見せています。その主題は13:1にハッキリと示されています。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」この、「この上なく愛しぬかれた」というイエスの愛こそが、ここから始まる最後の晩餐、そして十字架に至る主イエスの歩みが私たちに明らかにする福音の中心なのです。

世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛しぬかれた、と愛するという言葉が二度繰り返されています。しかも二度目は「この上なく愛しぬかれた」です。「この上なく」という言葉を、今度出た新しい聖書協会共同訳では「最後まで愛しぬかれた」と訳しています。この言葉は時間的な意味で「最後まで」とも訳せるし、質的な意味で「この上なく」とか「極みまで」などとも訳せます。この上なく、最後まで愛しぬいたイエスの愛。究極の愛がここにある。

2から4節を見ると、それはまさに今ユダがイエスを裏切るという心を抱え込んだその時のことです。しかも、明らかに主イエスはユダのそのような心をよく知って、その上で、ユダを含む弟子たちの足を洗いだした、というのです。他人の足を洗うというのは、私たちは知らない習慣です。2000年前のことですから、当然道路は舗装されていない。サンダルのような履物です。土埃が舞い、足は汚れます。日本の時代劇でも家に入るときに自分の足を洗う場面を見ることがありますが、この当時のパレスチナでは人に足を洗ってもらうことがあったようです。そして足を洗うのは奴隷の仕事だった。しかもユダヤ人の奴隷にはやらせない。外国人の奴隷がする仕事だといいます。そうすると、主イエスはペトロやユダの足をどんな気持ちで洗っていたのでしょうか。ユダもイエスを裏切りますし、ペトロだって結局は似たようなものです。主イエスは彼らが皆転ぶことを知っていたでしょう。どんな思いで彼らの足を洗っておられたのか?そんなことを考えている中で、私は今回読んだ本の中で初めて知ったのですが、足を洗うというのは、ただ奴隷だけの仕事ではなかったそうです。家族の仕事でもあった。家族が帰ってきたのを迎えて、汚れた足を洗って上げる。それは、愛の表れです。主イエスが弟子たちの足を洗ったとき、それはイエスの愛の発露に他ならないのです。

主イエスはペトロのことも、ユダのことも、他の弟子たちのことも愛しておられました。愛しているから足を洗ったのです。結局彼らはイエスを裏切ります。ユダがその先頭ですが、他の弟子も同じです。イエスの愛は、ダメな者や自分を裏切る者への愛です。悪魔に心を奪われた者への愛なのです。キリストの愛は本当にへりくだり、しかも優しい愛です。主イエスは「帰ってこい」というユダへの思いを込めて足を洗ったに違いないのです。同じように、私たちの足も洗ってくださるのです。

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