2021年6月20日「今こそ光を信じよう」

聖書:ヨハネによる福音書12:35~43
説教題:今こそ光を信じよう

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サッカーの試合のためにミャンマーから日本に訪れていた選手が、身の安全を守るために帰国を拒否し難民申請をする意向を示しました。難民として認定されることを私は願っています。ミャンマーでこの数ヶ月で起きたことについては私たちもニュースで見聞きしてきましたし、礼拝のときにも教会の祈りで何度も重ねて祈ってきました。クーデターを起こした軍隊の憎しみの激しさに言葉を失い、本当に心を痛めます。私たちの心に巣くう憎しみを、私たちは一体どうしたらいいのか。

アルブレヒト・ゲースという牧師が、戦後間もない時期に西ドイツでした説教が『泉のほとりのハガル』という説教集にまとめられています。その中に「我等が葬らねばならぬもの」という説教が収められている。1946年にベルリンである一人の男が、ベルリン攻防戦で死んでそのままここに葬られた人々の遺体を掘り起こし、遺体が生前胸につけていた識別表を確認して家族の元へ返し、新たな墓に葬り直していた、という話をしています。その男は戦中迫害されていたユダヤ人でした。なぜそのようなことをしているのか。彼は言った。「憎しみというものは、やはり何と言っても葬られてしまわねばなりません。」ゲース牧師は言います。「その通り。憎しみというものは、葬られなければなりません。いや、我々自らが、憎しみを葬らねばならないのです。」

主イエスは目の前の人たちに向かって言われます。「光のあるうちに歩きなさい。」「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」ここにイエスの心があるのです。ところが、彼らはその言葉も心も拒みました。それで、イエスは「立ち去って彼らから身を隠された」。聖書を読んでいる何気なくそう書いてあるだけのようにも見えますが、実はヨハネによる福音書の中でとても大きな出来事です。この時を最後に主イエスは人々の前から立ち去り、ただ弟子たちとだけ一緒に過ごすようになります。次にイエスが人々の前に姿を現すのは第19章13節以下。ピラトがイエスを裁判の席につかせたときです。人々はイエスの姿を見ると叫びました。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」すさまじい憎しみがイエスに向けられ、結局その叫び声に従ってイエスは十字架につけられました。

なぜイエスはここまで激しく憎まれたのか。39節に「彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている」と書かれています。そしてイザヤ書の言葉が二箇所引用されている。最初、38節の方はイザヤ書第53章、苦難の僕の歌と言われる箇所の冒頭です。ここに預言されている救い主の姿はまことにみすぼらしく、人々からは軽蔑され、嫌われていた。ところが実は彼がこのように打ち砕かれていたのは人々の罪を負ったからなのだ、という箇所です。もう一つ、40節の言葉はイザヤ書第6章。イザヤが預言者になるときです。行って神のメッセージを伝えてこいと神から命じられますが、同時にお前が話しても誰も聞かないだろう、と言われる。それだけ聞きにくいことを伝えなければならない。そういうイザヤ書の言葉を二つ紹介した上で、これはイザヤがイエスの栄光を見たから言ったことだ、と言っています。イエスの栄光は、みすぼらしく、軽蔑されながら人々の罪を負う救い主の栄光です。だから人々は耳を貸さず、イエスは憎まれる。しかし私たちが憎しみを葬り、神の光の中を歩むために、イエスは憎まれ、軽蔑されて十字架の栄光を受けたのです。

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