2021年6月6日「光のあるうちに」

聖書:ヨハネによる福音書12:27~36a
説教題:光のあるうちに

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2021年6月6日、さがみ野教会の歴史にいつまでも記される日が今日また一つ数えられます。一人の仲間が洗礼を受けるのです。今日の聖書の御言葉で言えば、光の子となるために、光のあるうちに光を信じるということを意味する。私たちはキリストの救いの出来事の証人です。今日の日は、たださがみ野教会の歴史に刻まれるだけではありません。神さまの御前で、永遠の意味を持つと私たちは信じています。やがて私たちが全員死に、今日の日を知っている人が一人もいなくなったとしても、神さまは今日の出来事を覚えていてくださいます。キリストが私たちを光の子として生かしてくださっているから、私たちは暗闇が覆っているこの世界で光の中を生きることができるのです。

私たちは、しばしば、暗闇の中で光がかき消されてしまったかのような出来事にぶち当たります。以前、左近豊先生という牧師の講演を伺いました。この先生は米国で旧約聖書の哀歌の研究をしてこられました。哀歌といえば、その名の通りに悲しみと嘆きの言葉が綴られています。イスラエルが戦争に敗れて滅ぼされ、国土も暮らしもめちゃくちゃにされた者の悲しみと嘆きの祈りです。左近先生は哀歌を手掛かりに、悲しむことや嘆くことの大切さについて話してくださいました。教会に生きる私たちにだって、喜びの日もあれば嘆きの日もあります。この一年、私たちが見舞われたコロナを巡る出来事一つを考えても、キリスト教会は嘆きの場として生き得たのかということは一つの問いだと思います。左近先生は言われました。私たちには受難週の土曜日のような日がある。つまり、主イエスは十字架にかけられ、神さまのお姿が見えない。祈っても空しいし、悲しみと闇に覆われてしまっているような日が、私たちにはあるのではないか。

主イエスは言われます。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。」この言葉はもともとは、主イエスがもうすぐ十字架にかけられるという意味です。事実、イエス様はこの後一週間もしないで十字架にかけられてしまう。だから、早く信じて欲しいと主イエスは言われた。しかし、単に文字面通りの意味だけだとしたら、それから一週間どころか2000年も経った今、私たちはどうしたらいいのか途方に暮れます。主イエスはとっくに十字架にかけられた。やっぱり私たちはイエスのいない暗闇の中にいるのか。やはり受難週の土曜日がずっと続くのか?ヨハネが福音書を書いた時、やはりそういう問いがあったのだと思います。福音書が書かれた時代も今と同じで、目の前にイエス様はおられないのです。そのことを考えながら聖書を読み進めて14:16〜18に至ると、この問への答えがあります。主イエスはこれから十字架にかけられる。受難週の金曜日が、土曜日がやってくる。どんなに悲しみが深くても主イエスのお姿を見えることはできない。しかし主イエスは神の元へ帰って、聖霊を送ると約束しました。聖霊によって私たちは聖書の言葉を通してキリストと出会うことができる。つまり、私たちは今、聖書に耳を傾けることによって、キリストの光に照らされているのです。主イエスは私たちに光の中を歩み続けて欲しいと言われます。十字架にあげられたイエスが、私たちを神のもとへ引き寄せてくださいます。受難週の土曜日の翌日にはイースターの日曜日が来ます。闇の中でキリストの光は確かに輝いているのです。

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