2021年5月30日「神は痛切に心を震わせて」

聖書:エレミヤ書2:20〜28
説教題:神は痛切に心を震わせて

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今日の箇所を読んで、どのように感じるでしょうか。できればお一人おひとりに感想を聞きたいところです。私はあまりの激しさ、熱情に、たじろぎました。例えば「お前は、素早い雌のらくだのように、道をさまよい歩く。また、荒れ野に慣れた雌ろばのように、息遣いも荒く、欲情にあえいでいる。誰がその情欲を制しえよう」と書かれていますが、これなどは特に激しくてきつい言葉だと思います。正直、ギョッとてしまいます。ここに語られているのは、わたしたちに対する神さまの思いです。神さまは、まるで妻に浮気された夫のように、愛する人に裏切られて傷ついている人のように、痛切に心を震わせて、身を引き裂かれる思いで私たちを見ているというのです。聖書の言葉の激しさは、私たちへの神さまの愛の激しさです。

ですから、ここを読む時には、自分が夫に、妻に、あるいは親に、親友に、好きな人に、裏切られて傷ついているところを想像しながら読むのがふさわしいと思います。神さまは身を焦がす思いで私たちを求めている。ところが、私たち人間の方はそんなことにはお構いなし。22節では、間違いがあっても灰汁か石灰かで洗えばいいと嘯き、23節では自分は他の神についていったことはないと平然と言いのける。要するに、神さまの傷ついた心を全然分かっていないし、知ろうともしていない。預言者エレミヤは、それが私たち人間の現実だと言うのです。

人間関係の中で何かしらの失敗をしてしまうことは誰にでもあると思います。言うべきではない言葉を口にしてしまった。つまらないことにこだわって人を傷つけてしまった。売り言葉に買い言葉で余計なことを言った。いや、そういう「余計な一言」が、いちばん自分の本性を暴くものです。

25節を見ると、このようにあります。「素足になることを避け、喉が渇かぬようにせよ」。荒れ野のような土地での言葉です。素足になればやけた地面が足を焦がします。喉が渇いたままにすればすぐに喉はガサガサになり、渇いて死んでしまいます。しかし、素足で歩くな、喉が渇いたままにするなという当たり前に忠告すら、「いいえ、止めても無駄です」と言って突っぱねて、大丈夫な気になっている。しかし、本当は自分が大丈夫ではないということに気づいていないだけなのです。今は生活に困っていないから、健康状態もまあまあだから、大丈夫かな…と。

舌禍をもたらす言葉といえど、もしかしたら、本当は問題の核心ではないのかもしれません。舌禍は、単なる言葉の失敗、意図したことが上手く伝わらなかっただけだという問題ではなくて、本当は私たちの存在そのものが歪んでしまっているところから始まっているのかもしれません。21節で、神さまは私たちに、本当ならお前たちは甘いぶどうを実らせる種であったはずなのに、悪い野ぶどうになっていると指摘されています。そうです。いくら実を結んでも、まずいぶどうしか実らない。私の口からは。その原因は、20節で「私は仕えることはしない」と神さまを拒んでいるところにある。神を捨てたから、私の存在の根っこが歪んだ。舌禍は、その結果です。神さまを捨てたことが根本的な問題なのです。神は燃えるような情熱を持って私たちを求めます。罪に傷つく私たちを放っておかず、罪深い私たちをなお愛し、求めて、ご自分の元へ招いておられるのです。

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